シドニーパラリンピック 男子マラソン観戦報告

(前編)

中澤修平さん


シドニーパラリンピック男子マラソン観戦報告

埼玉の中澤です
シドニーパラリンピック男子マラソンの応援に行ってまいりましたのでここにご報告いたします。(書くことは沢山ありますが、出来るだけ短くします)

私が一番多く伴走する相手は保科氏ですが、そんな御縁もありまして保科氏のご家族・親族の応援団28人の人々と行動を共にさせていただきました。従いまして、保科氏の話が中心になってしまいますことをお許しください。

スタート時の天候は曇り、心配された風もほとんどなく気温も日本の今の時期と殆ど同じでした。
高齢者の多いご家族・親族の方々はコース上二回、私と他三人で機動班としてコース上六ヶ所応援するように周到にプランを練り、走ったり電車を利用したりで私達も走りまくりました。
途中経過(私の担当ポイントのみ)
9km 保科氏(7位)その後ろに福留氏(  )少し離れて柳川氏( )
12km 保科氏(7位)その後ろに福留氏(  )しばらく経って柳川氏(  )
22km 保科氏(7位)その後ろに福留氏(7位)しばらく経って柳川氏(6位)
37km 保科氏(6位)その後ろに福留氏(6位)しばらく経って柳川氏(6位)
三人がゴールするところは残念ながら見られませんでした。

観光立国オーストラリアをアピールするためにマラソンコースは本番までに変更に変更を重ねて検討され、渡る橋を四カ所含む美しいウオーターフロントを中心に設定されました。コース設計者のコメントは、「速いものが勝つのではなく強いものが勝つコースにした」とのことです。

事前の報道通り、平坦なところはアンザックパレード通りとその他多くはなく特に女子の市橋選手が遅れだしたアンザックブリッジから始まる後半のアップダウンは私達がコースを見ただけで選手の苦しさが忍ばれます。

そのアンザックブリッジでの登りでは、柳川氏伴走の安田氏は、「ここでリタイアも覚悟した」(ニッカンスポーツ掲載)とコメントしているほどに巨大であり苦しい登りであったかと思われます。

三人の選手は、全コースにわたって本当によく頑張っていました。日の丸を背負うと顔つきまで変わってしまうのかと思われるほどに走ることに集中し、最後まで決して投げないとの心意気がこちらにもしっかりと伝わってきて、37kmポイントの最後の応援をして三人が走り去るのを見送った後、涙が止まりませんでした。

結果は皆様、新聞等(読売10月30日朝が一番詳しいと思われます)で御存知の事と思いますので割愛させていただきます。

保科氏のゴールするときの様子は、奥様の話によりますと、スタジアムに入ってきた時から明らかにフォームに異常を感じフラフラとしていたようです。残り10mあたりではフラフラはさらにひどくなり芝の方に入って転倒しそうになって、伴走の倉林氏がとっさに手を出して支えたようです。その一連の動きの異常さを見て奥様は死ぬかもしれないと覚悟されたほどだったそうです。

公式記録としては残りませんが、ゴールタイムは2時間52分台ではないかとのことです。

失格の判定は、ゴール後二時間ほど経ってからでした。

ご家族・親族の方々は閉会式を見学するためにスタジアムの席にいましたら、そこに伴走の倉林氏が来られて、通路に皆集まっていただき、こんな事になってしまって申し訳ありませんでしたという話から始まって、レース経過を説明してくれたそうです。

話す人も涙なら、聞く人も殆どの人が泣いていたそうです。

説明によりますと、前半曇り空で比較的走りやすく、より積極的に給水を取ることはしなかった。空気が乾燥していて思いの外身体から水分を奪ったのではないか。後半晴れてきてしまったが、もう給水しても遅かったこと等の状況が重なり脱水状態になってしまったということです。

保科氏はこのパラリンピックに向けて、高い目標を設定し本当に練習に練習を重ねて頑張ってまいりました。福知山選考会前後も含めて多い月は1、000km以上走ったときもあるのです。それだけ努力し、やるべき事はやったと自信を持ってシドニーに入りました。

一方伴走の倉林氏も御自身の海外でのレースやその他を棒に振ってまでも練習に、合宿に、そして実戦としての市民レース参加などにつき合ってくれて伴走者としてのノウハウの習得に努め、本番に備えてくれたのです。

今回の件は、例え私が伴走をしていたとしても、間違いなく手で支えたと思います。42kmの長きにわたって共に戦ってきた二人は、もうすでに一心同体になっているのです。その戦友が倒れ込もうとしているときに手を差し伸べるということは、意識するしないに関係なくもう自然な動きなのです。

保科氏にとって結果は不本意なことになりましたが、全ての力を出し切ったが故に、俺はやったときっと満足していることでしょう。

最後になりましたが、私にとっても伴走にあるいはサポートにと楽しませていただいた四年間でありました。この場を借りて三人の戦士にお礼を申し上げたいと思います。

中澤 修平

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