作文優秀作品集の表紙(子供達のにこやかな笑顔)種を広げる − 「完踏」をめざして −


第50回全国小・中学校作文コンクール 特選・読売新聞社賞受賞作品

2002.12.13掲載


                             山口県油谷町立菱海中学校三年
                                    長谷川 由佳  

 いつのまにか、石畳は、オオバコの生えた緑の道へと変わっていた。朝、少しかすみがかかっていたせいか、地面は湿っている。「オオバコが道に生えるのは、人の靴の裏に種をつけて運ばせるからなんよ。」
 私は、一緒に歩いている母に自分の知識をひけらかす。この道に関しては、私の方が母より先輩なのだ。先輩である私は、空間としてのオオバコの広がりではなく、時間としてのその草の広がりを想像してみる。
「わらじを履いてこの道を通ったサムライたちの付けたオオバコが、今もこうして生えているのではないか。」と。
 そう、私は今、萩往環を歩いている。

 萩往環マラニック大会。この大会は、毎年五月に行われていて、全国から千人をこえるたくさんの参加者がある。「マラニック」とは、マラソンとピクニックを合わせた造語で、「萩往環」は、往環道といい、サムライたちが通った時代の道のこと。サムライたちも通った道だから、本当に山あり谷ありの道だ。ここは果たして道なのか、と思うような険しい山道があるかと思えば、広い国道を通ったり。いずれにしても、現代人の私にとって、歩いたり、走ったりするには、ちと苛酷な往環道を「マラニック」な気分で楽しむのが、この大会だ。
 私が、この大会と関わりを持ってから、早四年がたつ。
 四年前のあるとき、酔った勢いで「走ります宣言」をした父。一度口にしたからにはやらねばなるまいと、父はあるマラソン大会に参加したのだった。それには、若い人に混じって四十代、五十代の方が、たくさん出場されていたそうだ。父は、若い自分が負けてはいられないと、そのときから本格的に走り始めた。そして走っているうちに、長い距離を走ることにとり憑かれた父が、参加を申し込んだのがこの大会、萩往環なのである。

 私と母の前後には、たくさんの人が歩いている。さっきから、小さい男の子とその父親が近くにいるのだが、この男の子はとても元気。それに対して、朝っぱらから酒を飲んだように赤い顔の父親は、「マー君、待ちいや。今急いだら、後がえらいよ。」と少しいらついている様子。私は、「自分が遅いくせに。」とひそかに思っている。そして命名。「だめ父さんとマー君」と。

 父が申し込んだ後、萩往環の実行委員長、小野さんから電話があった。要件は「大坊ダムで、エイドをやってくれんじゃろうか。」という依頼だった。私の住所は「東大坊」で、小野さんは、大坊ダムの近くだと思われたらしい。田舎とはいっても、私の家は町の中心地にあるし、大坊ダムは、うんと離れた山のど真ん中にある。初め父は、「自分も走るから出来ない。」と言ったが、小野さんに「前日だから。」と言われ、ならやりましょうと、その件を承諾した。それがすべての事の始まりだった。
 萩往環は、マラニックの部(A二百五十キロ、B百四十キロ、C七十キロ、D三十五キロ)と歩け歩けの部(E六十キロ、F三十五キロ)の六つに分かれている。わが家がエイドをすることになったのは、Aの部二百五十キロのコースだ。二百人を超える参加者があると聞いてびっくりした。また、途中で仮眠をとりながらだが、四十八時間ぶっ続けで走るというのに二度びっくり。ちょっと失礼だが、その時は、一体どんな怪物がやって来るんだろうと思った。エイドとは、給水所のようなものらしいが、何しろこんなことをするのは初めてで、具体的に何をすればいいのか、父はだいぶ悩んだようだ。当時、小学校六年生だった私は、何の準備の手伝いもできなかった。エイドの日は、だんだんと迫ってくる。とりあえず、お茶、スポーツ飲料などの飲み物、バナナ、レモンの砂糖づけ、あめ、キャラメルなど、思いつくものを持っていくことにした。また、父のアイディアで、ランナー同士の連絡用に、ゼッケン番号と大坊エイドに到着した時間を記録するという仕事を、私は与えられた。
 そうして迎えたエイド当日。といっても、ランナーがやって来るのは、真夜中から早朝にかけて。早い人で夜十二時ごろ、遅い人は朝七時くらいにもなるそうだ。当然のごとく徹夜になる。また、真夜中の大坊ダムなんて、考えただけでもぞっとする。いかにも何か出そうな雰囲気で。
 十時過ぎ、ランナーはまだ来ないので、時間を持て余した私と弟は、近くを探検に行った。行き先は、ダムに架かる橋の上。橋の真ん中に、何か黄色い物体を発見。懐中電灯を片手にそこまで行ってみると、その黄色い物体は、なんと生き物だった。犬でもなく、鹿でもなく、かといってイノシシでもない。まるで、縞のない虎のような生き物がうずくまっている。二メートルぐらいまで近づくと、それは「見つかっちゃったよ」とでも言うように、ゆっくりと私たちに背を向け、消えた。ああ素晴らしき大自然、恐るべし大坊ダム。

 世の中には、いろいろな人がいる。前を歩いていた謎の人物に、私は「コップじいさん」と名前をつけた。白髪のおじいさんで、背中のリュックには、なぜかブリキのコップがぶら下がっている。そのコップは、振り子のように規則的に左右に揺れている。わき水でも飲むのだろうかと、私は思っていた。しかし私の記憶が正しい限り、この先にわき水はない。ますます謎の人物である。私はしばらくコップじいさんの背中に見入っていたが、彼は歩くのがゆっくりだったので、そのうち抜かして行った。この時の私は、コップじいさんのすごさをまだ知らなかった。私は、やがて彼に抜かされてしまうのだ。ゆっくり歩いていたはずなのに、そのペースは常に一定だったらしく、後半、ペースの落ちた私を彼はさっそうと抜き返していった。私に再び背中の振り子を見せながら、私との距離をどんどん離していったのだから、すごい。素晴らしき老人パワー、あなどるなかれ、コップじいさん。

 初めてのエイドでは、少し年配の方たちとの出合いが多かった。一番初めに出合ったランナーは、東京都の知野見さんという男性で『注1』、おじさんと呼ばれる年齢の方だった。真夜中の十二時半ごろ、彼はトップで、忍者のようにやって来た。大坊ダムは、七十六キロ地点なのだが、七十六キロも走ってきたとは思えないほど足取りも軽く、飲んだり食べたりもそこそこに、再び闇の中へと消えていった。初めて見た、ランナーのとても元気な姿に、私は、すごいなあ、とただひたすら感動するばかりだった。実は、もっとマッチョな人が来るものと思っていたので、そのギャップに驚いた、というのもあったのだが。
 一時過ぎ、雨が降り始めた。何人かのランナーが到着した。その中には、女性トップの方がいた。大阪で小学校の先生をされている、佐田先生という方だ。私が、「すごい、女性のトップや。」と言うと、「こんな寒いのに、眠いのにごめんなあ。」と言ってくれた。少し話をして、「今、何年生?」という問いに、「六年生。」と答えると、「受験生やなあ。」という答えが。さすが大阪、小学生のうちから受験の嵐。
 こうして、少しずつランナーの方とふれあううちに、私はある一人の男性と知り合いになった。京都府の森塚さんというおじさんだ。とてもおもしろい人で、一緒に写真も撮った。そして、「ここまでリタイアせずに来れるかわからんけど、来年も来るからね。」と約束した。黄色い未知の物体に遭遇するような場所にも、こんなにすばらしい出会いがある。
 空が明るくなってきた。まだ、ちらほらとランナーはやって来る。また、多くの人が、「こんな遅くにごめんな。」とか「もう、みんなから力をもらうよ。」などと言ってくれた。だけど、私たちは逆にランナーの方々から力をもらっている。全身ずぶ濡れでやって来るランナーたち。それは雨なのか、汗なのか、みんな本当に疲れ切って、正に仙人のようだ。「もう途中で、何のために走っているのかわからなくなった。」と森塚さんは言っていた。だけど、一生懸命に走り続けるランナーのみなさんの姿は、最高にかっこよく見えた。
 結局、大坊ダムエイドを通過したのは、二百十人だった。この数でも、スタート時から二十人、三十人は減っているのだ。大坊ダムの手前には、ジャリガタオという峠がある。そこを通るのがちょうど夜中だということ、道がとても複雑ということが重なり、リタイアせざるを得ないランナーもいたようだ。森塚さんによれば、道を間違えないことも、萩往環のポイントということである。やっぱり二百五十キロはきついんだと、再確認、というか、ランナーの皆さんのすごさをもう一度思い知らされた。
 このように、わからないことだらけで、ただひたすら感動していたのが一年目。父は次の日、七十キロを走り抜いた。徹夜をした後走ることは、相当つらかったことだろう。その後、父は三日間動けなかった。私は、三日間、感動から抜けられなかった。

モノクロのイラスト(エイドに到着する男女の参加者二名)
 石畳の坂は終わり、国道に出て、しばらくは下り坂。この辺りは、まだしゃべれる元気のある所だ。この元気も、いつかなくなってしまうのだろう。そのうち、再び山登りの往環道へと入っていった。
 こんな山で弱音を吐いているようでは、ゴールまでたどり着けない。ここを乗り越えれば、豆腐が待っていると、私は自分に言い聞かせた。
 一つ目のエイド地点、佐々並は十五キロ地点。ここは、昔ながらの佐々並豆腐が婦人会のエイドの方々の世話で出される所だ。私は、提供する側の立場も、される側の立場も経験することになる。婦人会の人のおもてなしは、すでに十五キロ歩いている私にはとてもありがたいものである。だけど、少しだけ、大坊エイドの方が待遇がいいぞ、などとお国自慢のようなものをしている自分がいる。まるで親バカだ。

 我が大坊エイドでは、一年目の経験を生かし、二年目からは、何か温かいものをということで、近所の豆腐屋さんの豆腐を使った豆腐汁を作ることにした。特大鍋を商工会から借りてきたり、中学生ボランティアがやってきたりと、一年目より活気あるエイドとなった。森塚さんや佐田先生にも再会した。知野見さんはこの年もトップだった。そして、私はいつの間にか「大坊ダムのマスコット」的存在に担ぎあげられていた。きっと森塚さんの仕業だ。
「マスコットが、中学生になって帰ってきた」と、いろいろな人に言われた。私は、常連さんの仲間に入れたようで、少しうれしかった。
 また、ランナーの方々や父に刺激されたのがきっかけで、私はこの年から実際に萩往環に参加した。歩け歩け三十五キロの部だ。父も当然のように走った。徹夜後に歩くのは大変だったけど、ランナーの方々の苦労と感動を私も味わうことができたという思いで、とても充実した年だった。

 歩くコースを知っているより、まったく知らない方が気楽かもしれない。実際、初めて歩いた時は「前はこんなだった」と比べる事がなかったため、少しは楽だった様に思う。今回の萩往環は、いつもよりつらく感じた。
 私の足は、ぱんぱんにむくんで、別人の足のようだ。靴がきつい。腕も振って歩くので、むくんできている。じゃあ逆に、顔は細くなっているかなと、さわってみたけど変化なし。そう簡単に脂肪は落ちてくれなかった。
 もう少し先に「一升谷」という長い長い下り坂がある。いり豆を食べながら歩くと、一升食べ尽くすという言い伝えから「一升谷」の名がついたらしい。いつもなら、この下り坂で少しは元気を回復するのだが、今回は違った。きっと日頃の行いが悪かったんだろうと思う。なんと、大雨の影響で、一升谷が通れなくなっていたのだ。当然ながらまわり道、まわり道といえば遠まわり。仕方なくまわり道を通ったが、もう文句を言う気力もなかった。

 三年目のエイドに、森塚さんはやって来なかった。大坊ダムに来る前に、リタイアされたそうだ。言っては悪いが、少し年なので、来年会えるかどうか不安だ。例の豆腐汁はいつの間にやら「名物」になっていた様子。顔見知りの人もでき、エイドの名物もできてこれからも萩往環を続けていきたいと思った。
 この年、母が萩往環に初参加。去年のことだが、歩き終わった後、母は、初めて参加した時の父の様にしばらく動けなかった。

 二十五キロ地点の明木に到着。ここにはお弁当がある。よくがんばったね、と声をかけてくれる人の存在が温かい。私がエイドを続けてきて、Aの部のランナーの方々も、こんなふうに私の存在を温かいと感じて下さっているのだろうかと、胸が熱くなる。やはり、笑顔が基本だ。蛇足かもしれないが、今年の春休み、私はオランダとポルトガルに行った。その時は、もう本当に笑顔しか通じなかった。だから、どこに行っても笑顔は大事だと改めて再確認させられた。

 四年目の今年も例年通り、徹夜でエイドをして、次の日歩くというパターンのゴールデンウィークとなった。何年たっても、このわくわく感は変わらない。どんな人と出会うのだろうかとか、前知り合った人と会えるのかなど、とにかく期待で胸がいっぱいになる。毎年、私の係はゼッケン番号調べ。大変だけど、この係が一番多くの人たちと接していると思う。「すみません、ゼッケン番号見せて下さい」と必ず呼びかけるし、反対に「OO番の人はもう来たかね?」と尋ねられたりもするからだ。
 今年も長い夜が始まった。四年もやってれば、顔なじみというか、知り合いの人も増える。森塚さんや、佐田先生が代表的な例だ。少なくとも二百人以上の人が通過するので、こっちが知らなくても、大坊ダムのマスコットとしての私を知っている人も少なくない。「今年もいるね」と話しかけられるのは、とてもうれしいものだ。
 ところで、今年は森塚さんと会うことができた。なんと、森塚さんは私が受験生というのを覚えていてくれ、しかも北野天満宮のお守りを持ってきてくれた。「今回、これだけは届けようと思って。ここまではリタイアしたくないと思って。」
 二年ぶりに会った、森塚さんの笑顔は、以前と何一つ変わっていなかった。去年は、途中でリタイアされたのに、今年は、私が受験だという事を覚えておられて、ここまでこられた森塚さん。私とは、まだ二回しか会ったことがないというのに。
 こういう温かい人と出会えるから、私も他の人もエイドが続けられるのだ。来年もやろうという気になるのだ。ランナーの方々に、エネルギーを補給してあげるのがエイドの役割だ。だけど、私は反対に、ランナーの方々からエネルギーと感動を分けてもらっている。言葉では表せない、人間にとって一番大切なものを教えてもらっている。だから、たとえ得体のしれない生き物と遭遇するような真夜中のダムにでも、こうして毎年足を運ぶことになる。
 さてさて、今年は例の名物豆腐汁がグレードアップ。今まで、味付けは少し料理をかじっている父や、手伝いのお母さん方のだったが、今年は、居酒屋のマスターがプロの味を披露した。

 昨夜、試食した豆腐汁の味が思い出される。味はグレードアップしたのだけど、熱いという声もあった。味はもちろん、温度にも気を配らなければ、と反省させられた。本当に毎年毎年、勉強になる。今回もたくさんの出会いを経験し、たくさんのエネルギーを、またいただいた。
 私のゴールは萩市の指月公園で、残りあと十キロほどだ。明木を出発するとすぐに、恐ろしいくらいに険しい高い山がある。もう言葉は出ない。おとといの夜に、森塚さんをはじめランナーの方々からいただいたエネルギーがどれだけ残っているか、ここは意地と根性の見せ所である。
 山を登る途中、何度も「どうして歩いているんだろう……。」と思った。でも、やめるには明木に戻るか、ゴールの指月公園まで歩くかしかない。ここまできたんだ。もう後戻りはしたくない。どうせなら、前に進んで終わろうとやる気が出てきた。根性無しの私に、こんなにやる気がわいてきたのは、やっぱり昨夜出会った人たちのおかげであろう。
 しかし、本当の難関は、山を越え、萩市内に入ってからなのだ。ゴール地点の萩城跡はすでに私の視野にある。私もひたすら歩いている。なのに、国道の「指月公園萩城跡」の看板は、いつまでも二キロのまま変わらない。看板を見つける度に味わう無力感。痛めた足を引きずりながら、それでもゴールを目指し、前へ進んだ。とにかく、前へ。
 十時間と十分をかけて、今年も三十五キロを「完踏」した。マラニックでは、ゴールすることを完走、完歩とは言わず、「完踏」と表現する。私は、この表現がとても好きだ。「完踏」したものにしかわからない、「完踏した」という感覚が、ゴールした後の自分には、しっかりとある。
 父は、今年もCの部七十キロを「完踏」した。母も私と「完踏」の素晴らしさを共有した。また、今まで話に出てこなかった弟も、友達と一緒に「完踏」している。今年は、森塚さんのお守りの温かさに心打たれ、例年以上にきつさを乗り越えたという充実感があって、私にとっては忘れられない大会となった。

 遠い昔、サムライたちが歩いた道。そこには、自然とのふれあいがあり、人との出会いがあった。自然との戦いがあり、自分との戦いもあった。
 再び、私は想像する。サムライたちは、わらじの裏に種をつけて、オオバコを広げただけでなく、道を歩くことの素晴らしさを現代人にまで伝え、広げてきたのではないかと。それは、萩往環に参加するすべての人たちによって、確実に未来に受け継がれていくものだと、私は信じたい。
 そして、来年も私は、種を広げる一人として、この大会に参加したいと思う。森塚さん、佐田先生、エイドボランティアの人々、大坊のマスコットガールを覚えてくれているランナーの方々と再会するためにも。

『注1』:知野見さんは島根県の方で、作者からのご要望で注記させてもらいます。(管理人)


作者のホームページ
ハセガワパラダイス:大坊ダムエイド(250キロの76キロ地点)のリーダー、ハセガワファミリーのHP。父ハセはランナー、姉ハセは? HPで見てね!更新


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