皆様からの投稿

2004.05.23掲載

萩悪戦苦踏記

三宅千秋 横浜都筑AC

5月2日、未知のコースに対する期待とお天気に対する不安、練習不足による不安を抱いたまま、新横浜8時13分発ののぞみに乗車。新山口駅など聞いたことがないなあと思っていたが、小郡駅が改称したと気がついた。新山口で山口線に乗り換えた。

ホームに立つと、萩参加者らしき方がぞくぞく。連れがなく寂しかったので、隣の方に話しかけた。東京板橋から来られた岩崎さんであった。山口駅まで四方山話をし、武道館まで案内して頂いた。何を着るか最初から決めていたので、UMLLERの長袖Tシャツと半スパッツに着替えた。サングラスは今回必要なさそうなので、ゴールに置いておき、寒さ対策として薄手のウィンドブレーカ上下、手袋(綿とビニール2種類)とホカロン、雨対策として厚手の合羽と透明ゴミ袋をリュックに入れ、ウェストポーチには、財布、日焼け止めクリーム、ティッシュ、バンドエイド、鎮痛剤、胃薬を入れた。地図は両面コピーをして透明フィルムを貼っているので雨には強い。リュックはたすき部分にエアキャップを巻き、上半身に擦り傷ができるのを予防した。瑠璃光寺へ向かうころポツポツ小雨が降り出し、前途多難を思わせた。大会前の食料を確保しに行く途中で浜松の馬塚さんとも知りあい、共通の知人萩田さんのことで盛り上がった。

瑠璃光寺は案外大きな寺で、すでに参加者で賑わっていた。腹ごしらえをし、私は第4ウェーブで待機していた。18時15分緊張感のないままスタート。小雨のぱらつく中、同じウェーブの中では早いグループについていった。上郷までは快調。途中で、さくら道でご一緒した大阪の毛利さんに追いついた。上郷以後自転車道は小雨を除けば傾斜もゆるく快適で、福岡の古屋さんとしばし歓談した。上郷駐輪場エイドの後、堀さんと話している途中、左手に川に降りる道があったので、これ幸いとアイシングした。すでに30kmを超えており、足が腫れぼったくなっていたので、これで一気に熱とむくみが取れた。ペースはキロ7分をすこし上回っていたが、よいペースで走れていた。

門村交差点を左折すると、段々雨がひどくなり、一人寂しく走っていると、女性ランナーが現れたのでしばらく一緒に走った。ペースがやや早かったので気になって聞くと、さくら道を37時間ぐらいで踏破されたらしい。さすがに走力が違う。

エイドで飲み物を飲んでいる写真

西寺エイドにて(うめ吉さん撮影)

西寺エイドでは、女子高校生に出迎えられて、一気に疲れが吹き飛んだ。ここ以降、かなり
アップダウンがきつくなってきた。ゴルフ場があるこの辺りで50kmになるが、真っ暗で厳しいコースである。T字路に飲み物エイドがあり、砂漠にオアシスであった。ありがたや。

初めての食事エイド切石亭に到着した。今までの飲み物エイドでもバナナ等を頂いていたので、腹具合はボチボチ。美味しくおにぎり(カレー?)を頂いた。ここを出発する時、新井さんと一緒になった。萩は私と一緒で始めてだそうで、ここまで飛ばしすぎたと
おっしゃっていた。雨が本格化してきた。メガネが曇ってよく見えない。水溜りを気にしていたら、新井さんがわざわざ走る位置を変えて、私に走りやすい方を譲ってくださった。
まだ若いのに気遣いが嬉しい。眠気はなかったが、雨と疲労に襲われて砂利ケ峠は辛かった。救いは追い風とあまり寒くなかったことだ。大坊ダムの豚汁にホッと一息。エイド毎にストレッチをする予定であったが、つい忘れてしまう。段々体が硬くなってきた。

少し小降りになってきたころ油谷大橋に到着。海が見えるはずだがまだ真っ暗。海湧食堂が案外遠かった。到着した頃夜が明けてきた。先に油谷中学で着替えをすることにした。と言っても、ここには靴下しか運んで貰わなかったので、濡れたスパッツと長袖Tシャツをゴール行きの袋に入れ、リュックに入れていた雨合羽をじかに着込んだ。今日の天気予報も雨と聞いたからだ。海湧食堂でしっかり食事。美味しかった。食事後、新井さんと二人でストレッチをしたが、もう満足に膝が曲がらない。二人でそろそろと出発をした。

俵島までは左手に海が見える。絶景である。やはりこういう風景と共に走れるというのはウルトラの醍醐味である。楽しんでいたのもつかの間、日が差してきて、段々暑くなって来た。雨と寒さ対策で雨合羽に着替えたのに、裏目に出てしまった。合羽の前ボタンをはずし前をはだけただらしない格好で走った。油谷島に入ると、クニさんの掲示板に書かれていた、反時計回りのコースを走ろうとした。しかし、右手に一向に海が見えてこず、しかも時計回りコースの俵島へ行くコース上に出てしまったため、頭が混乱した。後でわかったが、山へ入る道を一本間違えたようだ。疑問符にかられたまま、始めてのチェックポイントに向かったが遠かった。この頃、新井さんが少しずつ遅れ始めた。俵島チェックポイントでは、おばちゃんの出迎えがあった。水が上手かった。帰路は正規のルートを通ることにした。その途上で新井さんが、「先に行ってください」としんどそうにおっしゃった。ウルトラは人のペースに合わせるのが難しいと痛感した。冷たい仕打ちで後ろめたかったが、新井さんに別れを告げて一人で川尻岬へ向かった。農協の三差路へ差し掛かると、
みんなのリュックがガードレールに掛かっていてカラフルであった。「そうか、こんな手があったんや」と感心した。

100kmを超えて疲労が目立ってきた。下郷駐輪場以後アイシングもできておらず、足のむくみ、鬱血が甚だしい。おまけに暑い。川尻岬から折り返す人たちに出会った。沖田食堂はもうすぐかと喜んだのも束の間、すごい下り坂。膝への負担を考えてゆっくり歩いた。この坂を上るのかと思うと気が遠くなった。景色は良いが坂を何とかして欲しい。沖田食堂で到着順位を見ると50番ぐらい。かなり早い。食事をして飛び出した。畑峠から川尻漁港への坂がまた急である。そろそろ歩いて下った。途中で池があった。そこで久しぶりのアイシングを行った。

シーブリーズではジュースを頂いた。日本海が見渡せるテラスでジュースを飲んでいるとウルトラマラソンに参加していることを忘れることができた。しばし放心状態でいると今までの苦しさが吹き飛んで、我に返るとこの萩ウルトラに参加できる幸福感を満喫できた。シーブリーズを出ると道は広いが、太陽が照りつけて暑い。大浜バス停で左折せず、油谷中学へ立ち寄って合羽を脱ぎ、雨と汗で濡れているスパッツとTシャツに着替えた。着替える予定がなくても、念のために着替え場所には着替えを送っておくべきであった。走り出して半時間もしないうちに服は乾いた。

立石観音を過ぎ、津黄峠も過ぎて間もなく千畳敷という頃、雨が降ってきた。急いでポイントチェックして喫茶店で食事をしようと券を出したが、千畳敷の券が見当たらない。地図には食事と書いてあったので心待ちにしていたが間違いらしい。店を出ようと思ったとき、横殴りの暴風雨。走る気をなくしたので、その店でサンドイッチと紅茶を頼んだ。1500円とびっくりする値段であったが、それなりに上手かった。30分ほど店にいても雨は止みそうになかったので、目の部分だけをくりぬいたゴミ袋をかぶり、意を決して飛び出した。しばらくは急な長い下り坂をゴミ袋を押さえながら走っていたが、風がゴミ袋を内側から膨らませるので走りにくくて仕方がない。途中で諦めてゴミ袋をたたみ、濡れるに任せた。不思議なもので、間もなく雨も風も収まってきた。

しかし、こんなに下りが続いてよいのか疑問に思えてきた。こんなに登った記憶はないのに下りが延々と続く。このあたりは海抜0m以下ではないかと考えていたころ、西坂本のエイドに着いた。中学生がサービスをしている。嬉しいなあ。しかし残念なことに、先ほどのサンドイッチが消化し切れておらず、麦茶だけを頂いてお礼を言い、エイドを出た。

西坂本から雨は降ったり止んだりであった。境川交差点を左折すると、交通量が急に増えた。排気ガスを吸いながらのマラソンは勘弁願いたいが、250kmともなるとそうも言っておれない。歩道が確保されているだけましである。長門から仙崎のT字路までやけに長く感じられた。

仙崎のエイドでは雨が止んでおり、リュックを預けて(勝手に置いて)鯨墓へ向かった。青海大橋を渡るとすぐ急な登り坂。島やから海岸沿いの風光明媚な平坦道を想像していた私が阿保だった。折り返しの人たちに挨拶。また少し小雨が降りだした。坂の上り下りを4度ほど繰り返した後、鯨墓の建物が見えてきた。しかし、同時にまた豪雨。ここの通過順位は39位。早過ぎる。鯨墓の帰りに、沖縄の宮城さんや毛利さんと出会った。しかし、新井さんとは会えなかった。150kmを超えているので、さすがにしんどい。「走ることを楽しみに来たんやから、もっと楽しまなあかん」と言い聞かせるが、足の方は言うことを聞いてくれない。しかも寒さが身に震わせた。雨で体温が奪われる。歩いてはいない程度の速さで休まずに仙崎へ戻った。自慢の防水地図も雨がしみこみ始めた。

先崎エイドでは、A10の方が後ろに座っておられた。「ひょっとしてクニさんですか?」と声をかけた。UMMLやHPでお世話になっている、あのクニさんである。初対面の挨拶を交わした。今から鯨墓へ向かわれるとのことで、私のほうが約20km先行している。
この時は、萩往還で抜かれるとは夢にも思っていなかった。

寒かったが、合羽は油谷中学で袋に入れたし、ウィンドブレーカはあるが、薄いので役に立たず、宗頭まで我慢しようとそのまま雨中に飛び出した。小浜踏切の手前は、ややこしそうだったので、地図を別途用意していたが、案ずるより生むが易しで難なく通過した。
しばらく行くと左手に100円ショップがあったので、そこでビニール合羽を入手。ゴールまで役立ってくれた。

だんだん日が暮れてきた。自然に4人ほどのグループで宗頭を目指して一緒に走っていた。19時半ごろ、待望の着替えエイド宗頭に到着。サポートの女性の元気さに気力が少し戻った。皆さん、ここで風呂へ入ったり、仮眠をしたりと長居をされるらしいが、私は眠たくもないし、風呂など熱中症になるだけなので、そこそこにして出発。藤井酒店への道のりをしっかり確認したが、一人で走っているとどうしても不安になる。不安が頂点に達する頃、やっと酒店に到着した。ここからは急な登りなので早足で歩いた。20分ほどで一般道に辿り着いたが、自動車専用道同様で、ランナーは右端を気をつけて走る以外にない。しばらく走っていると、鋭角に左折する地点があった。「三見駅への道はここかな」と降りていったが、川の音はするものの、町並みが見えず、川沿いの道がない。「おかしいな」と思いながら、自動車道に戻った。すると、また左に鋭角に曲がる地点。三見川橋とある。「これに違いない」と降りて行った。川はあるが町並みはなく、川沿いの道が行き止まり。疑問に思いながらまた自動車道に戻った。誰かについて行こうにも誰も通らず、「行き過ぎたかも」という不安がよぎった。このあたりが一番不安であった。しかし自分を信じてなおも下っていった。すると、「←三見駅」という表示。地図をもっとよく見ていれば良かったのだ。ここから三見駅までは迷わず進めた。

失敗に懲りたので、三見駅では誰かに着いて行こうと決めたが出遅れて、慌てて後を追った。追いついて同行を依頼したところ、「問題ないが、我々も始めてですよ」と言われた。それでも一人よりはましと着いていった。踏み切り手前の三叉路で、右と左に意見が分かれたので、次のグループが来るまで待ったが、同様に良くわからないとのこと。二手に分かれて、我々は左折してすぐ踏み切りをわたった。しばらく行くともう一度踏み切りを渡り、前方に先ほど分かれたグループが走っているのが見えた。結局我々は遠回りをしただけらしい。合流して6人になり一緒に走った。すぐまた踏み切りを渡ったが、その後の道がどうも地図と異なる。先行の二人には引き離され、4人が一緒に、「おかしい、おかしい」と言いながら山中を走った。坂も急だが、道も入り組んでおり、なかなか青長谷第三踏切に至らない。私は何度も、「間違っているから引き返そう」と言ったが、先頭の渡辺さんはずんずん走り続ける。我慢の限界が来た頃、「右萩」という標識が見えた。これで、「道は違っていたとしても、萩へ行ける」と一安心。しばらく走っていると、なんと、青長谷第三踏切に至った。道は正しかったのだ。渡辺さんに脱帽。そこから先は、昨年萩の経験のある渡辺さんに着いていった。

二晩目ともなるとさすがに眠気を感じ疲れも溜まって、思考能力がなくなってきた。玉江駅を経て笠山に至るまで、まったく渡辺さんにおんぶに抱っこ状態であった。遅れ気味であった私にペースを合わせていただき、感謝感激である。笠山から虎ケ崎食堂までは歩きとおした。虎ヶ崎食堂では眠気に勝てず、渡辺さんにお礼を言って、私は仮眠を取った。
15分しか眠らなかったが眠気は取れていた。もう夜は明けていた。虎ヶ崎から萩焼会館への途上は、今から笠山へ行くランナーとの挨拶で忙しく、あっという間に萩焼会館へ到着。そこから東光寺までは体全体に疲れが押し寄せて、満足に走れなかった。

東光寺から萩往還道までは、たまに私のクラブ(都筑AC)へ顔を出される佐藤さんに道案内をしていただいた。佐藤さんは、富士五湖、トライアスロン、萩と三連荘とのこと。
「世の中にはこんな方もおられる」と呆れ果てた。佐藤さんとは萩往還の入り口で別れて、
一人萩往還道へ進んだ。最初から呆れるような急坂と石畳。今までアスファルトに慣れていたので、膝には優しいが登りにくい。しかし、A以外の選手と挨拶できるので、それが励みになる。明木市のエイドでは、お饅頭が美味しかった。そこまではなんとか走っていたが、一升谷を越えたあたりから左足首の前面部が打ち身のように腫れており、急に走れなくなった。仕方がないのでしっかりした枝を2本捜し、杖にして歩いた。佐々並で名物の豆腐を頂いていると、A376のゼッケンに気づいた。たろう@ぎんざさんである。
UMMLで知り合って、私の練習コースの近くにお住まいということがわかっていた。初対面の挨拶を交わして、是非練習に顔を出されるよう依頼した。

佐々並からゴールまでは、まだ14.4kmもある。杖を突いて歩くと思えば気が遠くなりかけたが、ゴールはできると確信していた。ありがたいことに、萩往還道では雨は止んでいた。ここから板堂峠まで多少は農道を通るが、記憶に残っているのは、果てしなく続く自動車道。他の方は走っているが、私は歩いているため、なかなか進まない。おまけに、はるか先までコースが見渡せるため、「少なくともあそこまで行くのか」と気が滅入る。
眠気のために、杖をつきながら何回かフラフラして、後ろへ倒れそうになった。しかし、いつかは目的地に到達できるものである。板堂峠からは主に下り。ここで、たくさんのランナーに声をかけていただいた。杖をついての下りは辛いが、激励を頼りに下っていった。途中で同じ境遇の方に巡り会えて、一緒に舗装道路まで降りていった。舗装道路の手前でオカリナの音がした。曲は「涙そうそう」か。心に染み入る音色にしばし足の痛みを忘れ、聞き入った。

舗装道路からはあと少し。何とか18時までには着くだろう。町に近づくにつれて、応援が増える。少し誇らしげな顔をして応援に応えた。ゴールが見えてきた。杖をはずして走ってみた。ゴール前には海宝さんや渡辺さんがおられた。やっと杖と歩きから開放される。その喜びが一番大きかった。17時55分ゴール。ゴール後渡辺さんと連絡を約束し、宮城さんと再会・ゴールを祝った。後で新井さんが18時過ぎにゴールされたことを知り、
ゴール時に立ち会えなかったことを悔やんだ。

聞きしに勝るコースであった。私の練習不足もあるが、チェックポイントがすべからく坂の果てにあった。サドのコース設計者と、マゾの参加者の一騎打ちである。実質的に私はこのコースに打ち克てなかった。3週間ほど経った現在でも、まだ足が癒えていない。
そのため大会直後は、「もうこの大会は懲りた」と思っていたが、今は、「何とか全コース走ってみたい」に変わっている。やはり、ウルトラの世界は「怪し」の世界である。浸れば浸るほど、得体の知れぬものを垣間見て、二度と抜け出せなくなる。それを体験したものは、世間に吹聴するが信じてもらえず、信じている者同士の絆はどんどん深まっていく。
やはり宗教である。健全な肉体を作ることを標榜しているが、実はまったく不健全な活動に嬉々として身を投じている、奇妙奇天烈な集団だ。私もその集団に入れてもらえることを誇りにしているが(^^)。

エイドステーション(エイドに限りませんが)ではスタッフの皆様にお世話になりました。夜中までご苦労様です。我々は自分の楽しみで勝手に走っているだけですが、スタッフやボランティアの皆様は他人の面倒を見て下さっているわけですから頭が下がります。私にとっては、適当な間隔で飲み物エイドと食事エイドが配置されていました。お蔭様で最後まで殆どコンビニや自販機のお世話にならずに済みました。また、大会参加者、応援の皆様には、非常にお世話になりました。肉体的にも精神的にも、どれだけの支えになったかわかりません。ありがとうございました。
以上

2004年5月22日


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