第15回 山口100萩往還マラニツク大会

横田さんの
◎ 萩往還マラニック250km初挑戦記

横田 哲史(A−269)


フラダンス、エイエイオーの掛け声、近づく夕闇、電光掲示時計、五重塔・・・、なにもかも見聞きしたとおりの風景が目の前に広がり、さらには、小野幹夫さんやクニさんといった写真でしか見たことのない高名な方々が、手を伸ばせば届くところを歩いています(現にクニさんとは一緒に写真まで撮ってもらいました)。私のような未熟な初心者ランナーが、こんな日本一厳しいレースのスタートに立っていていいのだろうかという違和感、その想いが頂点に達した時、第3ウェーブの先頭近くの一人として、18時10分、ゆっくりとスタートを切りました。
 持ちうる最高のパフォーマンスを発揮できたときのみ、完踏の微かな可能性が見えてくるというのに、スタート前に(というより大会3日前から)これだけ舞い上がってしまってはどうしようもありません。わずか107km、最初の関門である川尻岬・沖田食堂で、初挑戦の萩は幕を閉じました。まったくお恥ずかしい体験記ですが、ひょっとして次回以降に初挑戦される方に少しでも参考になればと思い、恥を忍んで書き綴ってみました。もちろん、走行記録としてはほとんど意味をなしていませんので、この3日間に出会うことの出来た方々との交流が主な内容となっています。未だ未体験の人に、萩往還の気分を少しでも感じていただければ幸いです。


1 リタイアまで

(1) 瑠璃光寺〜JR上郷駅

瑠璃光寺の門を出てゆっくり下り、突き当たりを右折しJR山口駅へ。山口駅を過ぎ、河川敷の自転車道を走っていたとき、突然ドサっと音がして、右太股の煩わしさが消えた。後ろから、「落ちましたよ」との声がする。立ち止まり振り返ると、チェックシートや地図といったすぐに取り出したいものを入れていたカード入れが落ちていた。背中のリュックにぶら下げていたのだが、走るたびに右の太股に当たり、煩わしいなと思っていた矢先のことである。声の主に礼を言って拾いに戻る。紐がほどけたかなと思ってよく見ると、チャックが千切れていた。やはり100円ものである。仕方がないので、リュックに収納することにする。で、この時併せてノースリーブのベストを着る。冬場はジャージを着るので問題はないが、Tシャツだけだと化学繊維のリュックバンドが直接首の地肌に当たる。嫁さん(浩子)にタオルでカバーを作ってもらっていたが、どうやら効果は薄く、早くも首筋が痛くなりつつあった。

カード入れが太股に当たる煩わしさ、痛みが気になりだした首筋のリュックバンド擦れ、この二つが取りあえず解消した。気持ちが一気に軽くなる。右手にこれから進むであろう方角の山々越しに夕焼けがのぞき、左手には椹野川が穏やかに流れている。15年以上も前に司馬遼太郎さんの小説で憧れた長州路を、15年以上も経ってしっかり走る自分がいる。ここまで大会の雰囲気に飲まれ完全に自分を失っていたが、この時初めて胸の中に小さな闘志の炎がたつのを感じた。

上郷駅に着く手前、そろそろ陽も落ちてきた国道9号線を走っていると、福岡の柳さんが、「お先に行きます」と勢いよく抜いていった。完踏経験もある実力者だが、昨年は体調不良(本人は食べ過ぎと言っていた)のため、小田・海湧食堂でリタイアしている。今年は期するものがあるのだろう。続いて人の気配を感じ振り返ると、なんと昨年まで3連覇している高知の森下さんが迫ってきていた。あまりの嬉しさに、30秒ほど併走してしまう。挨拶すると、こちらのことを覚えてくれていた。実は、スタート直前にお姿を拝見し、迷惑だと思ったが思い切って声を掛けさせていただいたのである。夜空を見上げ、「きれいな星空ですねえ」だって。絵になるねえ、私が言ってもお粗末なだけだけどさ。しかし、当たり前だが、速い。6分/kmより出てるんではないか。「このペースでずっと行くんですか」と尋ねたら、「いやあ、やっぱり落ちますよ」と爽やかに笑顔で答えてくれた。どこまでも清々しい人である。森下さんとの併走を諦めるとほどなく、19時38分、JR上郷駅のエイド(13.4km)に着いた。

(2) JR上郷駅〜下郷駐輪場

地下道を潜って国道9号線をわたり、新町交差点を右折すると、いよいよ本格的な夜間走が始まる。ここで、今回最大のアクシデントに見舞われた。なんと、夜間走の頼みの綱、ブラックダイアモンドのヘッドライトが点かない!正直、パニックに陥った。しばらくは街灯のある県道をそのまま進んだが、やがて秋吉台自転車道に入ると付近は暗闇、ライトがなければどうにもならない。一瞬県道沿いにあったコンビニまで戻る考えが頭をもたげたが、電池は大会前に取り替えたばかり、ヘッドライトも衝撃を与えると点いたりもする。ままよと、前方を走る3〜4人の集団に飛び込み、後尾の女性に併走を頼み込んだ。

この女性は、クニさんのHPの掲示板でも走り回っている「くーさん」で、もちろん走っているときはそんなこととは露知らなかったが、しばらく走った後に伺った名前とうろ覚えのゼッケンナンバーから判明した。

ところが、この集団、驚いたことに中心はそのクニさんだった。男性と女性のコンビの後ろを、二人の会話を聞くともなしに「くーさん」と併走していたのだが、男性がくーさんに話しかけたのをきっかけにゼッケンナンバーを見ると、A−41とある。あれっ、どこかで覚えたな、このナンバー・・・、何だ、クニさんじゃないか!という感じ。よほど話しかけようかと思ったが、何となくおじゃま虫っぽく感じたため、無言で通す。

さて、この辺りは20kmポイント付近の二本木峠の上り口で、自転車道の距離表示頼りにペースを測ってみると、さすがクニさん、7分/km前後をきちんと刻んでいる。ところが、少々勾配があるとはいえ、このペースがやや重荷に感じている。足底筋を中心とした足の裏の痛みといい、どうやら完全に普段の調子ではないようだ。これが、3月4月に自分としてはかなり走り込んだ末の調整ミスなのか、大会の雰囲気に飲まれている結果なのかは、正直よく分からない。問題なのは、調子の上がらないこの状態をどこまで我慢できるかということだろう。なんとなれば、まだスタートして約20km、2時間余り、まだまだ始まったばかりなのだから。

湯ノ口の交差点のあたりに自販機があり、クニさん達が立ち止まったのを機に先に出る。と、すぐ先にエイドがあって、さらにその先にコンビニの明かりが見えた。とにかく電池を替えてみよう。もしかしたら、懐中電灯もあるかも知れない。エイドでくーさんに併走していただいたお礼を言って、コンビニに急ぐ。ところがコンビニには懐中電灯を求める先客がいた。そのランナーもライトが切れたらしい。しかも、買おうとしている懐中電灯は、最後の1個だとのこと。あまりよさげには見えなかったが、なにしろ無いよりは遙かにマシである。あきらめて、電池を買う。電池切れとは思えなかったが、藁をもすがる思いとはこのことだ。レジで電池交換、南無三・・・、やっぱり点かない。残された手段は、再度併走相手を求めること。「くーさん」のように快く応じてくれる人ばかりではないとは思うが、とにかく望みはそこだ。

コンビニを出て、後ろから近づくライトの灯りを待っていると、ちょうどいいペースの灯りが近づいてきた。併走をお願いすると、快く引き受けていただく。この方は山口の河野さんで、お話を伺うと、140kmの完踏経験があること(22時間)、地元山口からの参加であり、コースはある程度下見していること、豊田湖までは8分半/kmで走り、そこから先はのんびり行く予定であることなどが判明する。もう、これ以上望めないほどのパートナーじゃないか。くーさんにも助けられたが、まさに地獄に仏(くーさんの場合は、地獄に女神)、アクシデントにやや押しつぶされそうだった気持ちがすっと軽くなるのを感じた。河野さんと会話を交わしながら、夜の秋吉自転車道をひたすら走り、ほどなく下郷駐輪場に到着した。21時40分少し前だったと記憶している。

(3) 下郷駐輪場〜西寺交差点

下郷駐輪場のエイドで一服していると、職場の同僚にして、ランナー道の大先輩、福岡の田中行広さんたち一行が、ついに追いついてきた。確か第5ウェーブだったのではないか。であれば、10分の差を縮められたということになる。「結構速いじゃない、なかなか追いつけなかったよ」と、これも職場の同僚にして大先輩ランナー、和歌山の藤原さんから言われれば、やはりうれしくなるのは人情だ。ここで、ライトが点かなくなったこと、頼りになる併走相手に二人も恵まれたことなどを話す。そうしたら、さすがは田中さん、「これ、使いなよ」と嬉しいお言葉、予備ライトを差し出してくれた。なんでも、今持っているライトが非常に明るくて調子がよく、予備ライトがなくても大丈夫だとのこと。いくら調子が良くても、どんなアクシデントがあるか分からないから予備だろうに、それを気前よく貸してくれる男気。同時に気持ちの余裕を感じた。まだ始まったばかりだが、調子もいいのだろう。そんなわけで、田中さんと藤原さん、福岡の古屋さん一行に私と河野さんも加わり、8名前後の集団で下郷をあとにした。

さて、さすがは経験者、実力者集団、しっかり7分/kmのペースを保っている。自転車道だけあって距離表示は相変わらず1km毎にある。ペースを掴むにはうってつけである。8分半/kmで行くと行っていた河野さんだったが、黙って集団にとけ込んでいる。おそらく格好のペースメーカーと意識しているのだろう。私はライトが入手できたので、自分のペースに戻しても良かったのだが、まあ、ここはひっぱってもらおう。

藤原さんに、「まだほんの10分の1だけど、調子はどうですか」と振ると、「先のことはな〜んにも考えられません」と返ってきた。先輩ランナー達と併走することで、少なくともこの辺りでは精神的な落ち着きはなんとか取り戻せていた。

秋吉交差点を越え、左手に川らしき景色が見えた上りにさしかかる頃だったろうか、足の裏の痛みがはっきり感じられるようになってきた。距離的には30kmと少し、時間も22時を廻っている。2週間前の徹夜ランでは、20km足らずで来た痛み。その後はできるだけ休養に努めていたが、結局回復しきらなかったようだ。上りの途中で、トイレを入れる振りをして集団から脱け出す。足裏だけでなく、脚全体に及ぶ疲労感は隠しようがない。やっぱり調整失敗なのだろうか。まだ本当に始まったばかり、このまま誤魔化していれば、いずれ回復するのだろうか。

門村交差点を左折してしばらく走っていると、河野さんのゼッケンが認められた。立ち止まって黄色いジャケットを着込んでいる。確かに少し冷え込んできた。この辺りで私もジャージを着ておくことにする。立ち止まれる言い訳があることを嬉しがっているというのは、ほんとにさもしいね。

少し先に行った河野さんだったが、すぐに追いついた。かなり遅いペースになっている。どうも調子が悪いようだ。具合を聞くと、胃の調子が悪いらしい。ロングタイツの紐をきつく締めすぎたとのこと。持っていたキャベジンを飲んでもらう。こちらも調子もけっして良くないので、とにかくゆっくりとしたペースで走ろうと意見は一致、持ちつ持たれつで調子が戻ってくれば、言うことはないんだが・・・。

(4) 西寺交差点〜豊田湖・山本ボート石切亭

西寺のエイドは若い女性パワーで溢れていた。クニさんのHPの掲示板にも、よくここの写真が使われている。距離はフルマラソン相当、時間も日付けが変わる前後とあっては、ランナーにとっては嬉しいエイドだね。

河野さんが、ついに先に行ってくれと言う。だいぶ調子が悪そうだ。とにかく豊田湖まで行って、そこでその先のことは考えるとのこと。これまでのことに深くお礼を述べ、先に行かせていただく。0時15分出発。

深夜のほとんど車の行き来のない国道の押しボタン式信号が変わるのを待ち、JR美祢線の踏切を渡ると、そこからはかなり本格的な山道、中国自然歩道がはじまる。後ろから妙な気配がするので様子をうかがうと、ハンドライトが点いたり切れたりしているランナーが迫ってきた。ここから無灯火ではさすがに厳しい。くーさん、河野さん、田中さんに助けられてきた私が見過ごせるわけがない。声を掛け、併走することにする。千葉の石原さん、2回目のチャレンジで、残念ながら1回目の結果を失念した。石原さんとは、私のキャリアなどで会話が弾んだ。時間も時間だし、誰かと併走しているということは、当然ながら睡魔防止という意味からは実に重要だ。問題はその併走ペースにどれだけ合わせられるかということなんだな。

上りということもあって、8〜9分/km程度の、ほんとうにゆっくりとしたジョグで進む。しかし上りはよかったのだが、上りきって一転下りになると、とたんに足裏に鈍痛が響くようになった。ジョグとはいえ、走り続けることがつらくなってくる。石原さんを見ると、どうやらハンドライトは復活している。申し訳ないが、先に行ってもらい、下りはウォークで凌ぐことにする。しかし、結局下りが終わってもジョグにすら戻れない。

このあたり、あまりにも夜が深いので、先行するランナーの背中の点滅灯が見えるとホッとする。かと思うと、あっ、ランナーが何人かで休んでる!と思って歩調を早めると、道路工事のポールでがっかりしてみたり。

上田代三叉路から石柱渓T字路にかけて、あまりはっきりとは覚えていないが、この前後、なんと御年70歳!もちろん、250km最高齢の鹿児島の鶴園さんと出会った。完踏はさすがに無理とのお話だが、挑戦するその心意気。まさしく、こうありたいという走る見本みたいなお方である。こちらはすでにだらしのないペースになっていたため、すぐに先に行っていただいたが、その若々しさが強く印象に残った。

下地吉T字路を左折、どうやら豊田湖の湖水の気配が感じられる。百合野を右折し、少し上るとようやく豊田湖・山本ボート石切亭に到着した。2時25分。当初の予定では、ここを1時40分には出発したかった。もう1時間近く遅れている。

(5) 豊田湖・山本ボート石切亭〜川尻岬・沖田食堂

山本ボート石切亭では、名高いおむすびとうどん。とりあえず食欲はある。ところで、ここでなにより驚いたのは、福岡の友野さんがおられたこと。ちょっと疲れたような表情で椅子に腰掛けている。私のタイムから、「だいぶゆっくりされてますね」と話しかけると、多分リタイアするとの言葉に一層驚いた。友野さんと言えば、ペースを一定に保ち、しかし絶対休まない粘りの走りが身上のウルトラランナー、萩250kmも4回連続完踏中だったはず。訳を聞くと、数週間前に痛めた腰の具合がかなり悪いらしい。腰という部所だからということもあるかも知れないが、友野さんほどのランナーでも万全でないと序盤で跳ね返されてしまう。あらためて萩往還の怖さを実感した。

出発する前にトイレに入り、出てきたところに河野さんが入れ違いで入ってきた。思ったより早く、しかも元気そうに見える。しかし、ここでリタイアするとのこと。140kmを22時間で完踏する実力者でも、こうなる。250kmって、残りの距離との闘いでもあるのかな。

当初予定の1時40分よりきっかり1時間遅れの2時40分、山本ボート石切亭出発。しばらくは、道に不案内であることを理由に併走をお願いしたお二人のランナーの後ろを、ゆっくりとしたペースで走る。しかし、もうどうにもならないところまで、気持ちの落ち込みが来てしまっていたようだ。確かにお二人のペースは、せいぜい8分/kmといったところだろう。これでとにかく走り続けられればよさそうなペースである。豊田湖の左岸を3.2kmほど行くと、豊田湖の北端に出る。その北端に出る手前で、早々と白旗を揚げてしまった。トイレに行くのをタイミングにお二人から離れ、ここに今年の萩往還は早くも幕を閉じた。

確かに足裏を中心として、脚全体に疲労感が強い。しかし、結局気持ちが完全に終わっている。これではまったくお話にならない。もし、これが100kmレースだったら、残り40数km、なんとか気持ちは保てたように思う。しかし250kmレース、ここからまだ200km近くあるんだ。これが萩往還250kmの恐ろしさだ。実力、実績がないと、この距離というヤツにあっという間に飲み込まれてしまう。初心者、初参加者が簡単に乗り越えられるレースじゃない。

もう完全にウォーク。俵山温泉を挟み、2回、バス停の長いすで横になって眠る。気持ちが終わってしまうと、途端に襲ってくる睡魔。今回は、3日ほど前から異常アドレナリン分泌がおきて興奮状態が続いた反動かかなり手強いヤツで、立ち向かうべき気迫も既に無く、もう為すすべがない。2回目の睡眠は、心配されて声を掛けられたような記憶がある。どうせなら放っておいて欲しかったなあ。

砂利ケ垰の上りは、眠くてしかもウォークだったせいか、あんまりきついという印象はない。負け惜しみに聞こえるかも知れないが、少なくとも川尻岬までの107km、うんざりするほどのアップダウンではけっしてなかった。もちろん序盤は元気だし、終盤はウォークだから当たり前だと余所様からは突っ込まれるだろう。しかし、アップダウンに関して言えば、間違いなく引け目はない。これは来年の武器としたい。

砂利ケ垰の下り、この辺りで明るくなってきたと記憶するが、ここでは比較的ウォークでもスピードが出ており、ジョグに近くなっていた。諦めの気持ちが足裏の痛みを忘れさせたのか。2人ばかり抜き、しかしもういいやと思ったとき、前方に女性ランナーの姿を認めた。この人に話しかけることで自分の気持ちを完全に整理しようと思う。

追いつき声を掛けると、思ったより元気そうだった。神奈川の飯島さん、ここから川尻岬でリタイアするまでの15時間以上、併走(併歩)するパートナーになっていただく、人との出逢いだった。飯島さんもこの時点ではほぼ終戦モード、ただ、せめて最初の関門である川尻岬までは辿り着きたいという希望は持っていた。で、闘うことを放棄して以来考え続けていたプランを話す。すなわち、関門時間の許されるところまではなんとしてもゆく。その後は、収容先の宗頭でボランティアを手伝う。仮眠を取った後、ノーゼッケンで往還道を瑠璃光寺のゴールまで走る。

ボランティアを手伝うというアイディアは、柳さんから授けられたもの。昨年、無念のリタイアを海湧食堂でしたあと、柳さんは宗頭でボランティアを積極的に買って出たそうな。その後は、なんと萩市内でも臨時エイドを出すなどしたらしい。確かにランナー以外に萩往還という大会に参加する手段はあるはずだし、逆にリタイアしたからといって大会から排除されたら、こんなに寂しい話もないだろう。

往還道はどんな形にしても走っておきたかった。もちろん、完踏を目指して走れていれば言うことはないが、リタイアしたとしても来年のために往還道を走っておくことは、大きな経験になるはず。それに、出迎えてくれる浩子たちのためにも、走って瑠璃光寺に辿り着きたかったんだ。このプランは飯島さんも気に入ったようで、とにかく川尻岬までに収容されないように、走り(歩き)続ける意欲は持とうということで意見が一致した。 

6時35分、大坊ダムエイド。もう、すっかり明るい。完踏ペースで行くためには、ここは暗いうちか、夜明け間際くらいに通過しなければならない。ボランティアの人も一仕事終わったという感じでのんびりしている。うわさのアイドル、長谷川由佳さんの姿もない。後で知ったことだが、由佳さんは35kmに参加されたそうで、5時過ぎにエイドを後にしたらしい。来年の宿題が、また一つ。肉豆腐汁はすっかり冷めていた。

新大坊交差点を左折し、国道191号線に入る。今日(5/3)も実にいい天気だ。伊上交差点を右折、国道191号線を離れ、川尻岬方面へ。左手が油谷湾、もう日本海だ。一応は日本海に辿り着いたことになる。正直、もう少し闘う姿勢でいたかったけどね。

小田・海湧食堂、8時47分着。リタイアしボランティアに廻っていた友野さん、河野さんにいろいろ世話を焼いてもらう。こちらもリタイア同然なのに、ありがたい限りである。私も宗頭でのボランティアでは誠意を尽くそう、などとまったく場違いな感想を持つ。楽しみにしていたお粥だが、こういう状況では美味しく感じられるわけはない。また宿題が出来ちゃった。

久津三叉路、農協スーパーに11時20分着。ここを左折し5.8km先の俵島を折り返し、また5.8km戻ってくる。背中のリュックを無造作にスーパーの裏手に置き捨て、ウエストバック一つで俵島を目指す。折り返しのコースというのは、行き帰りともランナーとすれ違う楽しみがある。もっとも、たぶんわれわれが最後部だろうから(さすがに私達より後ろはリタイアだろう)、帰りにすれ違うことはなさそうだ。その分、行きのすれ違いを楽しもう。しかし、この時間だと、行きももうそんなにいないよね。それでも、5人くらいはすれ違ったかな。完踏出来た人はいたんだろうか。あるいは、リタイアしたとして、どこまで行けたんだろう。

俵島案内板の最後の上りのところ、ここがちょっとした小径でけっこう長かったんだが、このあたりで千葉の石原さん(前述の石原さんとは別人)に追いついた。右足を引きずっており、かなり痛々しい。なんでも、夜中の暗闇で転倒したとのこと。アクシデントに遭わないようにするのも、完踏の大きな条件だ。

俵島、97.3kmにして最初のチェックポイント、12時45分着。今回は、ここが最初で最後のチェックになる。

3人で俵島を折り返す。クニさんのコース案内にもあるので、復路は往路を戻らず島を一周する。途中、石原さんが眠くなったのを合図に3人で仮眠。天気がいいからできる芸当だな。この時点で13時を過ぎ、オフィシャルで川尻岬より先に行くことが叶わなくなった。完全に今年の萩往還が終わった。

14時27分、久津三叉路・農協スーパーに戻る。あとは川尻岬で関門アウトの手続きを取るだけ。距離も4.1km、散歩がてら歩を進めるにはちょうどいい。農協スーパーを出てすぐに、右手にラベンダーのような鮮やかな紫畑があったのが強く印象に残った。もしかしたら、ほんとうにラベンダーだったのかも知れない。 川尻岬・沖田食堂、15時30分。当たり前のようにレースが終わる。制限時間が13時のところを2時間30分も遅れたんだから仕方ないと言えば仕方ないが、ボランティアの人から、ちょっとお小言をもらう。確かに大会に参加している以上、自分だけ良ければいいという姿勢は言語道断だ。反省しきりである。

制限時間アウトは仕方ないが、リタイアはしないと約束した長女(あゆ、8歳)に電話、「とうさん、最後まであきらめんやったよ。でももうルールもあるし走られん」。「ほんとにもう走れんと?」「・・・。」この悔しさをバネに、来年こそ完踏を誓おう。

2 リタイアから

(1) 三隅町・宗頭文化センター

 ボランティアの古谷さんの運転するバンに収容され、三隅町・宗頭文化センターに向かう。シーブリーズの手前、日本棚田百選にも選ばれたほどの風景こそ、車の揺れに耐えきれなくなった睡魔のため見逃したが、そこから宗頭までのコースは、仙崎から青海島を除きすべて車中から見ることが出来た。来年の糧にしようと決意する。

19時前、宗頭文化センター着。さすがにこの時間だと、まだランナーもそう到着していない。とにかく混み出す前に風呂と食事を手早く済ます。さあ、ボランティアとして働く場はあるかな。ところが、そんな心配はまったく無用だった。

萩往還はなにしろ超長距離であり、ボランティアの数が相当不足しているらしい。これは、ちょっと驚きだった。ランナーズで日本一にも選ばれる大会、正直、裏方のボランティアのみなさんも数多くいると思っていた。でなければ、みんなが満足できる大会運営なんてできないと思ったからだ。逆に言えば、小野幹夫さん始め、数少ない人達の超人的な活躍によって支えられた大会なのだろう。このことは、もっとランナーとして参加する側も知った方が良さそうだ。給水、給食を始め、コース案内にしても一人一人が自立すること。マラニックという言葉を真摯に受け止め、あくまで自己責任、自己管理の下、大会に参加すること。瓢箪から駒とはこのことだが、リタイアしてボランティアをしたことで、マラニックに参加する心構えをあらためて教わった気がしている。

宗頭では、同じボランティアとして、多くの方々と交流することが出来た。中村さん、今年は残念ながら不参加だったが、来年はランナーとして参加するとのこと。越田信さん、夜久弘さんの著作、「決定版 100kmウルトラマラソン」にも登場する高名な市民ランナーで、昨年、ラン・アクロス・アメリカも完走されている超人ランナーである。いい歳をしてミーハーな私は、黄色のスタッフジャンパーを着て文化センターの入り口に立っていた越田さんの姿を見た瞬間、血が騒いでしまった。しかし、いたって気さくな方で、ずいぶんお酒をごちそうになる。渡辺和子さん、やはり夜久さんの「決定版〜」に登場する渡辺頼正さんの奥様で、毎年この宗頭でボランティアをされている。頼正さんは今年も250kmに参加され、みごとに完踏された。クニさんのHPの掲示板にもよく登場されるSataさん、250km女子トップの経験もある方で、やはり今年は不参加だが、来年は参加されるとのこと。みなさん、ほんとうにいろいろ教えていただきありがとうございました。この場を借りてお礼申し上げます。

さて、宗頭での私の仕事は、到着したランナーの方々のチェックをすること。要は受付である。さらには、仮眠される方の時間管理、起こす時間を間違えたらえらいことになる。もちろん、途中でリタイアされた方のチェックも忘れない。到着してすぐに、リタイアされた方の名簿を見る。田中さんの名前がないことを確認し少しほっとする。昨年の初参加、宗頭で無念のリタイアとなった田中さん、去年の5月、リタイアした顛末を聞き、未だウルトラマラソン未体験ながら、1年後の萩往還という夢を持つようになったわけで、今日ここにいるのもこの人のおかげだ。今年こそ何とか完踏してほしい。

時間が経つにつれ、ランナーがどんどん増えてくる。さすがに20時頃までのランナーはどこか余裕がある。それはそうだろう、宗頭にこの時間に辿り着くランナーは、当然それだけの力があるわけで、時間的にもかなり楽なはずだ。21時を過ぎ22時を廻るとランナーはどっと増え、さながら文化センターは野戦病院の様相を呈してくる。怒ったような表情のランナーも多い(実際相当不機嫌な人もいる)。

この頃、ついに田中さんが到着した。北部九州のマラニックでよくご一緒させていただいている福岡の江口さん、渕上さんも同時に到着する。わがことのように嬉しくなる。もうこちらの分も走りきってほしい。これからがきついとは思うが・・・。

1時を廻り、さすがにこれ以上起きていることがきつくなってきた。ランナーの数もウソのように少なくなってくる。来年に備え、夜を徹した上で往還道を走ろうという考えが一瞬だけ頭をもたげたが、今年は自分の実力に見合ったことをしようと布団に入る。マッハの速さで意識が飛んだ。

(2) 往還道

 8時20分、萩城跡前を出発。メンバーは私の他、Aさん、Sさん、Fさん、Iさんの5名(リタイアされているので、名前はすべてイニシャルにしています)。Sさんの発案で、白ゼッケンを裏返して背中に付けてある。白旗降参という悲しいシャレである。スタートして直後、140kmに参加されている福岡の峯さん、前村さんとすれ違う。ご両名とも、北部九州のマラニックで何回かお世話になっている。「元気そうね」と言われたので、「ええ、リタイアして寝てますから」と答えた。

本番のルートではここから笠山を目指すのだが、我々は直接往還道に向かう。経験の豊富なSさんの先導で、朝の萩市内をゆっくりとしたジョグで進む。萩駅の近辺、往還道がいよいよ近づきだした頃、ついに250kmのランナーと遭遇した。広島の藤原さんで、速めのウォークながら非常にしっかりとした足取りである。なにしろ眼が死んでない。こういう眼をしていないといけないんだな。時間も9時過ぎで、この調子なら完踏は間違いないだろう。

 萩有料道路休憩所に10時10分着。10分ほど休んで、さあ、ここからが本格的な往還道である。さすがに寝ているせいか体調は十分、新緑の山道が心地いい。しかし、不眠不休の250kmランナー達には、この急坂は堪えるに違いない。

この頃から、140km、70km、ウォークの選手達とすれ違うようになる。ちょっと困ったのは、こちらを250kmランナーと間違えること。250km以外はゼッケンに派手な色が付いているが、250kmは白ゼッケン、何も付けていない白地のTシャツだと白ゼッケンと見間違えるようだ。「おかえりなさい」「がんばって、がんばって」等々、いちいち「リタイアですから」と打ち消すのは大変だった。それから、背中の裏返しゼッケン(白旗)。250kmのランナーを抜くときに、「ゼッケンがひっくり返ってますよ」と言われることがあった。事情を話すと、お義理で笑ってくれる人もいるが、「もったいない!」と怒って(?)くださる人もいる。ノーゼッケンで走れるくらいの元気があるのなら、リタイアするとはもってのほかということか。

山道が本格的になってきて、Fさん、Iさんの血が騒ぎだしたようで、すっかりトレイルランになる。私も自分のふがいなさにあらためて腹が立ってきて、この両名に懸命についていく。

 10時45分、明木市のエイド着。ここの掲示板に、250kmを力走中の田中さんと、初参加の140kmを奮闘中の福岡の田中和美さんの両田中へ激励メッセージを残す。田中和美さんとは携帯で連絡を取っており、おそらく1時間後くらいにはこのメッセージを目にするだろう。少しでも力付けられればいいが。250kmの田中さんはどこで頑張っていることやら。

一升谷の山道、石畳、さらには時々現れる一般道をなりふり構わず走る。自分でも不完全燃焼、消化不良という思いが強い。闇の中の豊田湖前後、なんでもう少し闘えなかったんだろう。意気地、意気地なしだな。

佐々並のエイドが見えたとき、エイドから、「お〜い、横チ〜ン」と呼ぶ声が聞こえた。田中さんだ!早い、まだ13時前だ。この時間にここまで来ているとは思わなかった。嬉しくて、もう自分が完踏出来たような気になってしまう。しかし田中さん、もう残り15km足らずだというのにまったく気が緩んでいない。それどころか、一種怒気を含んだような気配ですらある。闘う姿勢をまったく失っていないのだ。これなんだな、ほんとに。ゴールまで、拙いながら露払いを務めよう。

ところで、このエイドで、70kmに参加している間寛平さんに遭遇した。寛平さんとは1回、10kmレースでご一緒させていただいたことがあるが、その時とは比べものにならないくらいの気迫だった。寛平さんほどの実力者でも、萩往還の70kmはいい加減な気持ちで走れるコースではないようだ。田中さんといい、寛平さんといい、あらためて心構えを教わったような気がした。

13時ちょうど、佐々並出発。しばらくして大阪の毛利さん、竹下さんと走る田中さんたち一行に追いつき、Fさん、Iさんともども計6名での併走となる。もちろん3人ともそれぞれ疲労の色は濃いが、やはりゴール間近の安心感もやや感じられる雰囲気である。基本的に上りはウォーク、下りはゆっくりとしたジョグ。暑いくらいの天気だが、この時間であれば完踏は間違いないし、問題はないだろう。

13時35分、浩子から小郡駅に着いたとメールが入った。瑠璃光寺に着くのは14時30分頃か。こちらもこのペースなら、15時30分までにはゴールできそうだ。ひとまず、ゴールでの感動の対面シーンを心に描く。

夏木原キャンプ場前の一般道の上りで、草餅とお茶を出してくれるエイドがあった。リタイアだからと辞退するが、遠慮するなと勧めてくれる。この往還道、やはりリタイアしての走りは苦しい。35kmものトレイルコースだから水分、食糧補給なしというわけにはいかないが、かと言って終盤になれば物資がなくなるという話を聞けば、そうそう手を伸ばすわけにもいかない。どう考えるべきなんだろう。参加料はリタイアした場合、その先有効なんだろうか、無効なんだろうか。いっそのこと要綱に明記した方が、無用のトラブルにならなくていいような気がする。

板堂峠、14時35分。ついに往還道最高地点を上りきる。あとは下るだけ。しかしこの峠、もう少し何か標識みたいなものがあるかと思った。

田中さんをゴールで出迎えるため、一足先に行くことにする。ここからFさんと下り坂を一気に駆け下りたが、さすがはFさん、そのストライドの大きさにはまったくついていけない。天花畑を過ぎ、舗装路に出た。もうゴールまでは3kmあまりである。

トレイルランが終わり、気が済んで歩き出したFさんを残し、一人舗装路を下る。一の坂ダムに15時5分、ここで最後の息を整え、浩子に電話、ビデオの用意を頼む。残り2km、このペースなら10分ちょっとか。もうコースも終わりに近づき、当たり前だが元気が出る。最後に湧き出る人間の元気というのは、ほんとうにすごい。

スタートして直後に右折したT字路、ここを反対側から右に曲がると、瑠璃光寺の五重塔が視界に入ってきた。浩子達は・・・、いた。門の手前左側にいる。帽子を振り回しながら、大きな声であゆと楓(次女、3歳)の名前を呼び、ついに二人を抱きしめて、ゴール。15時15分。こんな形ではあるが、やはり家族の待つゴールに辿り着くというのはいいものだ。付近の人が、早く門を入ってゴールテープを切れという。後ろを向き、白旗を見せ、さらに何も付いていない胸のTシャツを突き出し、「すみません、リタイアなもんで」。

ゴールして約15分後、田中行広さんが、毛利さん、竹下さんと3人で手を繋ぎながらゴールしました。私のようにノーゼッケンではなく、胸と背中の250kmの白ゼッケンが、実に誇らしげでした。その後、17時10分頃、140kmの田中和美さんが、福岡の村田さんと感激のゴールを果たしました。キザな言い方になりますが、涙を流しながらゴールする彼女の笑顔は、本当に美しく見えたものです。一緒にゴールシーンを見ていたSataさんから、「ここからが萩往還よ」と言われた17時50分過ぎ、渡辺頼正さんが身体を左側に傾げながら、最後の角を曲がってこられました。

何回も言うようですが、初挑戦の今回は、なによりも250kmを走りとおすという心構えがまったくなっていなかった。走力不足、経験不足を言う以前の問題だったような気がしています。田中行広さんは、萩往還を走るにあたり、「人間力」という言葉を使いました。江口さんはゴール後、「頭の年輪の勝利」を強調されました。来年の大会本番まで、走力、体力に加え、これらの諸々を身に付けるべくトレーニングに励む所存です。

まったくもって、恥だらけの体験記ですが、来年、こういうこともあったなあと笑い飛ばす覚悟で投稿しました。長文にて乱文、最後までおつき合いいただきありがとうございました。


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