矢代 幸太郎さんの

2003年 サロマ湖(100K)完走記

2004.3.8 掲載


泪のサロマ
矢代幸太郎
サロマ湖へ向けての実質的なスタートは、5月11日の「チャレンジ皇居50キロ走」だった。初めてのウルトラ(42.195を超える距離という意味で) とあって、堀口さん(kazさん)が深川さんにサポートをお願いしてくれていたので、もともと深川さんがサポートをする予定だったフラボノさんと、3人での走りとなった。この日、僕は50キロの半分も走らないうちに走りたくなくなった。辛くなってきてすぐにやめたい気持ちが芽生え、初めから「完走できないかも」と考えていた僕は速攻で自分に負け、立止まったのだった。

僕のふがいなさを見ながらも深川さんはサポートに付き続けてくれて、走る意味、サロマに挑戦するということがどういうことなのか、丁寧に教えてくれた。気持ちが折れていた僕は、その場から逃げ出したくて仕方なかったけれど、深川さんはそんなことを許さない毅然とした態度で話をしてくれた。その言葉がすごく的を得ていて、冷静になってから悔しさがこみ上げてきた。本気で走るって、どういうことなのか考えさせられた。サロマで負けたくないと思い、本気で練習を始めたのは、この時が最初だと思う。その後、多くの人のアドバイス、応援を受け、期間は短かかったが自分なりに満足いく内容の走り込みをして、大会に望んだ。
北海道へ旅立つ前日まで、仕事で大忙しだった。結局終わらなかったのだけれど、毎日深夜3時までがんばって時間を作ったのだった。当日、羽田空港まで追いかけてきた仕事に悩まされながらも、睡眠不足もあって飛行機の中でぐっすり眠って、気分一新!
目が覚めたら飛行機の窓からは中標津の見渡す限り続く畑、畑、畑が見えた。北海道に来たんだぁっと心が高鳴る。しかし、空港について携帯の電源を入れると2秒後に職場から電話が・・・。でも北海道に来ちゃえばこっちのもの。心穏やかに対応し、圏外なところが多いこともあって、マイペースで応対した。河面さん、佐藤さんは、手荷物引渡し場で電話をしている僕を見て「やっしー」であると見破ったそうである。さすがに何人ものウルトラランナーを見ているだけあるなぁ。
河面ママと佐藤さんと一緒に昼食を食べ、サロマのことや自転車のレースのこと、クロカンの大会、斜里の方々のことをお聞きした。お二人がとても親しみやすくて、緊張感が抜けていくのを感じた。堀口さん(kazさん)と新沼さんが斜里岳に登っていることなどを聞き、さすがkazさん、楽しそうでいいなぁと、何も予習してこなかったのをちょっと後悔。
河面ママのドライブでさっそうと斜里に入り、夢気香はもう目と鼻の先。でも、僕の同室は斜里岳の後に釣りに出かけているkazさんと新沼さんだ。一人で宿で待っているのもつまらないだろうからと、河面ママがあちこち連れていってくれた。お忙しいのに、楽しんでもらいたいという精一杯の(しかも無償の)もてなしには驚くばかりである。kazさんやチョモランマさんが言っていた、「本当にいい人たちなんだよ」の言葉が思い出され、なるほどなぁ、すごいなぁと、感心し、感謝した。この時に、ダブル河面さんに連れて行ってもらった「さくら滝」は、すごく印象的だった。サクラマスが遡上中に滝で行く手を阻まれ、ぴょんぴょん必死になって昇ろうとしていた。50回飛んでも100回飛んでも滝は昇れないかもしれない。ひたむきな努力が心に沁み、自分もがんばろうと思った。
kazさん、新沼さんと合流して温泉を満喫し、帰ってくると、河面ママたちが既に着いていて、料理をするだけの状態で待っていてくれた。持ち寄って下さったまぜ御飯やサラダをいただき、チャンチャン焼きを作ってもらって、会話もはずんで最高の晩だった。初めてきた場所なのにすっかり和んで、古い知り合いと会っているような感じがした。
翌日、羅臼岳登山を諦めたkazさんにお願いして、新沼さんと一緒に釣りに連れて行ってもらった。海辺を歩いて河口まで行き、上を目指す。河口と言っても、知床の川は上流のまま河口に注いでいる感じなので、すぐに渓流となった。教えてもらったポイントへと落とすと、かなりの高確率で当たりがくる。オショロコマは完全に入れ食いで、面白くて仕方が無かった。その後、温泉に入ってからツーラーメンを食べ、原生花園を見に行ったりと、ウルトラを忘れてすっかり北海道を堪能した。原生花園でkazさんが、「時刻表見てこなくていいの?完走できなかったら帰りは電車だよ?」と言う冗談も、プレッシャーに感じないで笑いながら聞けたのは、充実した時間を過ごせていたからかもしれない。
湧別へは河面ママの車で新沼さんの運転で向かった。途中、コースの一部を通ったら、レースは翌日とあってキロ表示の看板が出ていた。kazさんが「ここが55キロのエイドがある緑川だよ」「42.195キロ地点はここを曲がってすぐのところだよ」と教えてくれて、気持ちが翌日のレースへと入っていった。気持ちが入り始めると、だんだん完走への不安が沸いてきて、それが楽しみな感じと混ざりあって、いてもたってもいられなくなった。早くスタートになってほしかった。
角矢さんのお宅につき、またまた豪華な晩御飯をご馳走になった。毛ガニにホタテと北海道の幸をたらふく食べ、旦那さんのお話をお聞きしながらお酒を飲み、緊張感を緩めて眠りにつくことができた。僕は小心者だから、一人だったら緊張で眠れないと思う。角矢さんのお宅で多くの仲間に囲まれ、いい気分で寝られたのは幸いだった。すべてがレースに向けて良い方に進んでいた。
朝3時に目が覚めた。あまり早くても迷惑なので布団の中でジッとして様子を伺っていたら、何人か起きてウロウロしているようだ。寝ていられないのは僕だけじゃないらしい。一番のりで角矢さんのお宅へ行って朝食を食べ、出すものも出して準備万端。レース開始まで、あと1時間である。不思議と心は落ち着いていた。角矢さん(奥さん)と小さい方のワンちゃんに見送られ、いざ、会場へ。
会場には、僕の知っている人は誰もいなかった。知り合いがたくさんいて、挨拶しまくっているkazさんを見てまたまた感心した。経験もあるけど、やはりキャラクターが好いからだと思った。取材を終えたのんのんさん、Rinさんと合流し、角矢邸に泊まった他のみんなとも一緒になって、気持ちもだんだん盛り上がってきた。写真を撮ってる間にスタート地点に並ぶように指示され、もうレースなの?という感じだった。
開始直後は恐ろしいほど遅かった。キロ7分くらいだったと思う。周りの人を見ながらノンビリと、遅いペースを楽しむようにして走った。焦りはまったく感じなかった。練習ではキロ6分を心がけてもキロ5分半くらいに速まってしまう癖があったから、この段階で遅いことは返って良いことだと思った。最初の2キロくらいは1人でノンビリと走り、kazさんに追いついてからは、話をしながら一緒に走った。
しばらく行くと、竜宮の折り返しから帰ってくるトップ集団が見えた。のんのんさんとニシさんはどこかとワクワクしながら探した。友人が増えるとこういう楽しみがあるのかと、初めてのこの状況を楽しんでいた。のんのんさんを見つけて声をかける。手を振っているのを見て、のんのんさんがすれ違いざまに「おおっ!がんばれーっ」と言ってくれたのを聞いて、なんだか途端に元気が出た。
竜宮の折り返しでは、子供たちのサロマ湖太鼓が見られた。太鼓の音がどうこうよりも、太鼓を敲く子供たちの威勢の良さに驚いた。「ヤッ!」という掛け声が自分に投げられているような気がして、嬉しくなった。気持ちにも余裕ができて、全然知らないランナーと話をしながら走った。
30キロまで、キロ6分ちょいのペースで淡々と走り続けた。途中で西野さんに何度も追い抜かれ、「やっしー、あんまり飛ばすなヨー、これ以上速く走ったらイカンヨー」と言っていただいた。僕は西野さんを抜いたのは開始直後だけである。何で何度も抜かれるのか不思議だったが、西野さんがトイレに行ったりトイレに行く女性を待ったりで、ちょうど同じペースになっていたらしい。西野さんに声をかけていただいたことは、僕にはすごく嬉しかった。僕はこれ以上速くなんて走れなかったけれど、そういう注意をいただけるくらいのペースで来たということが嬉しかったのだ。
30キロ過ぎ、練習では疲れが押し寄せてくる頃合いである。いつ来るか、いつ来るかとビクビクしていたら、32キロくらいで約束通りにやってきた。足が上がらず、ペースがガタッと落ちた。深川さんとkazさんが教えてくれた作戦は、前半は行けるとこまでキロ6分、ガタが来たら一緒に走っている人と話をして気を紛らわしながらひたすら着いていけ、というものだった。僕は密かに「ガタが来る前に50キロまで行ってしまいたい」と思っていた。しかし、これまでに経験した最長距離が50キロなのに、そりゃちょっとずうずうしいというものだ。どうなるんだろう?と戸惑う僕に、kazさんが「予定通りじゃない。まだ余裕あるから、少しペースを落とそうか」と笑って声をかけてくれた。
Kazさんの立ててくれた作戦の第一段階では、僕の目標は50キロに6時間で到達することだった。制限時間に30分の貯金を作って、80キロの関門まで小出しに消費していく。30キロまで3時間ちょっとで来ていたので、50キロまでの残り20キロをキロ9分程度でもいい計算となる。そう考えれば無理な数字じゃないけれど、それでもこの時の僕は「少しペースを落としたって復活するわけじゃないし、ずるずる遅れて50で切られちゃうのかな?きっと40キロくらいで一向にペースの上がらない僕を見捨て、kazさんは先に走って行き、僕は孤独に絶望感を味わうのだろう」とイメージしていた。
35キロのエイドで、少し長めに休んだ。食べ物を食べ、アミノバイタルを飲んだ。石田くんが追いついてきて、少しだけ一緒に走って追い抜いて行った。最初から同じペースで走ってきた石田くんと前半(僕にしては)飛ばしてペースがガタ落ちの僕は好対照だと思った。ああいう走りが勝利につながるのだと思った。
この辺りはちょっとした坂があった。登りは走る気になれず、走ってるんだか歩いてるんだか解らないペースで移動した。そんなタラタラした走りを繰り返すうちに登りが終わって平坦となった。ふと気づけば、不思議と前の人から引き離されず、追い抜かれることも少なくなってきた。いつの間にか、足が復活していたのだ。「ウルトラは我慢してれば復活するから」とkazさんが言っていたのを思い出した。気持で走れとは、簡単に挫けず、粘りにねばればいつか必ず復活するということか。
40キロ、50キロと、キロ8分くらいで淡々と進んだ。42.195キロの看板で記念写真を撮ってもらい、「写真を撮るときだけ明るい笑顔になるなぁ」とkazさんに笑われた。
55キロのエイドが見えて来るころ、斜里のみなさんが待っているところでみっともない走りはできないっ、と走りに気合が入った。エイドの手前で斜里のみなさんが手を振ってくれているのを見たときは、あたたかいなぁ、嬉しいなぁ、がんばるぞ、と自分でも不思議なくらい素直に思った。笑って手を振り返すと、河面さんが「いけそうかい!?」と聞いてくれた。「はいっ、まだまだいけます!」と応じて、気持ちが一気に盛り上がった。
55キロのエイドには、なぜか石田くんがいた。少し前について休んでいたらしい。55キロという途方も無い距離を、よく一人でがんばって来れたなぁと感心した。僕はkazさんがいなかったら、30キロすぎで止まっていたかもしれない。
「ここから3人で行こう」というkazさんの言葉で、石田くんとも道連れとなった。石田くんのペースも落ちていて、僕もなんとか着いていくことができた。
そこからしばらくは、不思議なくらい快調だった。60キロのエイドが見えてくると、あそこまで行けば飲み物があるんだな、早く行ってゆっくりしたいな、という気持ちが芽生えた。ちょっとペースを上げてみると、全然疲れない。これはいける!とペースを上げた状態でエイドに突入し、ゆっくりとアミノバイタルを飲んだ。
その直後である。体が急に重くなり、走るのが辛くなった。キロ8分近いペースなのに、ついて行くのが辛くてズルズルと遅れはじめた。エイドの前のペースアップが悪かったのは明らかだった。このままズルズル後退したら、石田くんとkazさんに置いていかれてしまう、もし置いていかれたら、自力での完走なんて不可能だと思い、重い体にムチ打って無理矢理に走った。63キロのエイドに着いてイスに腰掛けた瞬間、ついに2回目の限界点がやってきた。
もう、立ちあがりたくなかった。このまま少し眠りたいと思った。意識はもうろうとなり、気を抜くとそのまま寝てしまいそうだった。kazさんが時計を見ながら「まだ貯金があるから、少しだけ休もう」と言って、僕のために何かを持ってきてくれたように思うけれど、何をどうしたのかよく覚えていない。何分ぐらい休んだのかも、全く解らない。ただkazさんが「じゃ、行こうか」と言った言葉が重くのしかかってきたことだけは覚えている。
僕は、そのままでは10mも走れる気になれなかった。何か復活に繋がるものが欲しくて、わらにもすがる気持ちで、もう一度エイドに行こうと思った。そのとき、心配してくれた石田くんが先回りしてアメをとってきてくれた。「舐めながら走るといいよ」と、心配そうな表情で渡してくれたとき、「石田くんも初参加で決して楽な旅じゃないはずなのに」と思い、石田くんはすごいなぁ、僕は情けないなぁと思い、挫けそうになった気持ちが繋がったのだった。
石田くんがくれたアメを舐めながら、極端に遅いペースで再び走り始めた。湖畔の林の中をゆるゆると走り抜けて行く。65キロ、66キロと距離が進むにつれ、気持ち悪くて吐きそうな感覚が次第に薄れていくのが解った。僕は2度目の復活をした。
石田くん、kazさんのキロ8分ペースになんとかついて行き、僕が足を引っ張ったせいもあって70キロの関門では貯金はわずかに10分、貯金はほとんど残っていなかった。
70キロをすぎ、kazさんが時計を見ながら「とにかく80キロまでは走るから。根性みせてみろよ」と言って石田くんと走って行った。Kazさんはよく心得ていて、この「根性みせてみろ」が僕を奮い立たせるのを解っていたのだと思う。僕は2人の姿が見えなくなったらおしまいだと、2人の背中だけを見ながら自分との戦いに入り込んで行った。
「ここが踏ん張りどころだ。Kazさんが言うように、根性をみせるところはここしかない。ここで根性を出せずに挫けたら、オレは何をしにここまで来たんだ?いろんな人に迷惑かけて、いろんな人たちの応援を受けながら。今が正念場だ。オレを応援してくれてる人たちを落胆させていいのか?そんな根性なしなのか?・・・足が痛い。けどそんなのは当たり前だ、こんだけ走ってるんだから。みんな我慢して走ってるじゃないか。それこそ根性で乗り切ればいいんだ。そうだそうだ、やればできる。応援してくれてるみんな、見ててくれ、オレは絶対に負けないからな」
僕の完走を願ってくれている人たちの顔が浮かんだ。
「ここで挫けたら、深川さんは悲しむだろうな、きっと今日か昨日あたりに、やまのりさんと2人で僕が完走するかもしれないって話をしてくれたのだろうな。
チョモランマさんは猛暑の中で一人で戦ったんだ。相当苦しかったハズだな。負けたら合わす顔ないなぁ。土産話もなくなっちゃうし。
斜里の人たちは花輪を作って待っていてくれているんだろうな。もし僕が負けたら、願いを込めて作ってくれている僕の分の花輪はどうなるのだろう。どうなるもこうなるも、捨てちゃうしかないか。花輪が無駄になっちゃったら、きっと悲しむだろうな。でも、もし僕がゴールできたら、我が事のように喜んでくれるんだろうな。・・・何がなんでもゴールしなくちゃ。負けられない!」
80キロまで体力が持つ気持ちにはどうしてもなれなかったけれど、ペースが落ちそうになる度に、僕を応援してくれている人たちが力をかしてくれた。
75キロ付近で、前を行くkazさんが止まって僕を待っている。何やら嬉しそうだ。追いつくと、「あれがお汁粉エイドだよ」と教えてくれた。
ついに、サロマ名物お汁粉エイドまでたどり着いたのか、と思った。レースに来る前、なんとかしてお汁粉エイドまではがんばりたいと考えていたので、感慨深かった。ここまでがんばれた自分が信じられない。当のお汁粉は混んでいてなかなか食べられそうに無かったし、お汁粉を食べることなんて今さらどうでも良かったけれど、Kazさんが並んで取ってきてくれたのは素直に嬉しかった。そのお汁粉を食べていると、なんとRin(岩本里奈さん)さんが追いついてきた。追い抜かれていないし、リタイヤするはずも無さそうだから、いいかげん追いついてくるとは思っていたけれど、さすがにRinさんだと思った。ここから4人での旅となった。
80キロの関門までは、鬼気迫った走りでだった。途中、何人ものランナーを抜いた。僕ら4人は明らかに活気づいていた。気を抜くをズルズルとペースが落ちそうだったので、弱気になるようなことは一切考えないで、ただひたすらに走った。Kazさんが「おお〜、復活したねぇ」と声をかけてくれた。僕は、復活する前の弱気なイメージを思い浮かべそうになり、「頭の中で必死に何も考えないように仕向けているんだから、復活したかどうかなんて聞かないで!」と言いたくて、何故か「無理してんです!」と応じた。自分でも驚くほどぶっきらぼうな言い方だった。kazさんは驚き、笑いながら、「そうか、80をすぎるまでは何も言わないよ」と言ってくれた。僕には、怒っているわけじゃないですよーっと訂正している余裕も無かった。
80キロ関門手前のエイドをすぎ、林の中を登っていくと、僕にとって最大の関門であった80キロ関門が見えてきた。制限時間まで、わずかに6分。kazさんの作戦通りの展開であった。関門を抜け、少し気をゆるめて歩くと、目の前にサロマ湖100キロマラソン最後の舞台であるワッカの原生花園が広がった。
石田くんは、80キロ関門までの追い込みで足を痛めたのか、急に元気がなくなった。膝にダメージが集中しているらしい。下ばかりみて、うう、うう、と唸っている。走っても歩いてもたまらなく痛いようだった。アメの時のように、気の効いたことができれば良かったのだけれど、僕には話しかけることぐらいしかできなかった。
ワッカは気持ちよかった。ペースが極端に遅かったせいもあって、心にも余裕があった。新沼さんとすれ違ったとき、彼がやたらと元気なのに感心した。余裕あるなぁ、すごいなぁと思った。途中、海宝さんがコース脇に立っておられて、kazさんが「この二人、初完走なんですよー!」と紹介してくれた。海宝さんは「イエー!」と両手でハイタッチをしてくれた。まだ完走できていないのに祝福をもらっているようで照れたけれど、本当に嬉しかった。
95キロくらいのところまで、上井さんが迎えにきてくれた。応援に来てくれた彼女と4人で(Rinさんはとっくに先に行っていた)、ワッカを走りきり、ビクトリーロードのあるゴールへと向かった。
ゴールの直前で、斜里の人たちが花輪を持って待っていてくれた。僕ら3人は花輪を受け取り、頭に被って並んで走った。普段おとなしい石田くんが「きたぞーっ」と叫んだ。ワッカが辛かったのがズキンと伝わってきた。僕も「きたきたきた〜っ」と応えた。Kazさんを中心に、僕ら3人は並んでゴールした。その瞬間、先にゴールしていた仲間、リタイヤして運ばれていた仲間、斜里の人たち、大会関係者などの拍手の渦につつまれた。嬉しかった。これまでに経験したことの無い衝撃だった。僕は、涙を抑えることができなかった。Kazさんと抱き合いながら、「ありがとうございました、本当にありがとうございました」と叫んでいた。得体のしれない、すごく幸福な瞬間だった。そして、いろんな人たちへ心から感謝したい気持ちだった。
斜里の人たちが「よかったねぇ、よかったねぇ、一番心配してたんだよ」と、僕の頭をなでてくれた。僕のゴールを親身になって心配してくれていた想いが、ズドンと心の奥の方を打ったようで、胸の奥から湧いて来る感動で再び涙が流れた。
しばらくしてお袋からメールがきて、「よかたね、お父さんと祝杯をあげるよ」と書いてあるのが嬉しかった。深川さんにメールを打ったらすぐに返事がきて「よかった!よかった!とくかくよかった!」とだけ書いてあって、感動で言葉がうまく出てこないのだと知って感激した。そのあとのメールのやりとりで、本当に我が事のように喜んでくれているのが伝わってきて、嬉しかった。深川さんとやまのりさんが13時間もの間ずっと心配してくれていたと知り、胸が苦しくなるような感動を覚えた。
そのあとのことは、あまりよく覚えていない。とにかく眠くて、お風呂で溺れそうになったのは確かだ。斜里に帰って歓迎を受け、もう一度サロマに来るぞ、と宣言したかもしれない。
僕は斜里の方々や応援してくれる人たちから、何にも代えがたいパワーをもらった。僕の完走は、このパワーなくしてはありえなかった。その恩返しに、お金では買えない幾許かの感動を伝えているのだと思った。
制限時間10分前。涙と汗でグショグショになりながら、僕は29年の人生で一番幸福な時間を得たと思う。

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