第14回 萩往還マラニック大会

僕はここにいる。

2002年5月2日〜4日


2002.5.2  距離 250km

天気 5月2日曇り 3日曇りのち雨 4日雨時々くもり

場所 山口県山口市、小郡町、美東町、秋芳町、美祢市、豊田町、長門市、油谷町、日置町、三隅町、萩市、旭村

参加者 堀口一彦

記録

堀口 46時間22分48秒 涙、涙の3年越し悲願達成!


完踏記

僕はここにいる。

堀口 一彦

--- 1999年5月3日、午後8時過ぎ。170km付近、宗頭エイド手前。天候、雨
スタートから26時間が過ぎようとしていた。土砂降りの路上で僕はもはや動けず、すでに「もの」と化した自分の体をただ天から降ってくる雨垂れにさらし続けていた。
腰から下の感覚は「痛い」というのを通り越して何も感じなくなっていて、足は棒のように硬く、だいぶ前から僕の意志をかたくなに拒み続けていた。
・・・ この先のエイドで僕は重大な決断をしなくてはならない。・・・
強迫にも似た悪魔の指令が思考回路の壊れた僕の頭の中を完全に支配していた。
鯨墓からの復路、155km過ぎからほとんど走れていない。
走れなければ歩いてでも、歩けなければ這ってでもとことん前に進むぞ!…と思っていたのはいつの時までだろうか。それすらも思い出せなかった。
「悔しい」という気持ちすらとうの昔に忘れてしまっていた。
そして…ヘトヘトになって175km地点の宗頭文化センターに着くと、僕はほとんど躊躇することなくリタイアを宣告し、ゼッケンを外した。
気が狂いそうになるほど、心が破裂しそうになるほどすさまじい悔しさが込み上げてきたのは、着替えもせずそのまま毛布にくるまって床についたあとだった。
悔しかった。
なんのとりえもない僕のたったひとつのプライド、それが「絶対にあきらめないこと」だった。中学高校での水泳部の練習も、大学での山岳合宿でも、70kgを背負うボッカ訓練でも、沢で鉄砲水を食らって一晩孤立したときも、雪崩にあって遭難しかかった時も、最後まで絶対にあきらめることはなかった。
それが・・・・・。残り75kmでまだ制限時間はたっぷり20時間以上残っていた。なのに僕は「もうダメです。許してください。ギブアップします」と完全に白旗をあげてしまったのだ。
心が折れた・・・僕にとってこれ以上の屈辱はない。
僕は泣いた。
27 時間もの間動き続けてきた「体」は、いますぐにでも眠りにつきたかっただろうが、「心」がそれを許さなかった。体は死んでるのに脳だけが覚醒していて眠れなかった。
猫のようにまるく毛布にくるまって僕は一晩中泣いた。
-- 2000年5月3日10時、川尻。晴れ。
春先に足首を故障し、トレーニングも満足にできずに臨んだ2度目。やはり甘くはなく、赤ちゃんのようにくるぶしのなくなったパンパンに腫れた左足を抱えながら、僕の2度目の挑戦は終わった。涙はなかった。
-- 2001年5月4日14時頃。曇り。
僕は全コース中最も高い地点、板堂峠を越え、あとはゴールの瑠璃光寺までひたすら下るのみというレース終盤まできていた。 待っているのは栄光のゴール・・・のはずだった。
しかし、すでに僕の胸にも背中のザックにもゼッケンはなかった。
前日、長門市の手前で僕はまたもリタイアしてしまっていた。情けなくて涙も出なかった。
さらに宗頭で一晩寝た次の日の朝、体が少し動けるようになっていたことは、自分のふがいなさを認識するのにとどめの一撃となった。
「ほんとに自分は限界まで頑張ったのか?妥協するクセがついちゃっているんじゃないか?」
自分で自分に疑念が生じていた。弱すぎる自分の意志にいいようのないいらだちを覚えた。宗頭から萩へ護送されてバスを乗り換え、ゴール行きの送還バスに今まさに乗ろうとした時、その感情はピークに達し、僕はもう一度ゼッケンなしでコースに戻ることを決意した。
なんのために自分は往還道を越えるのかわからなかったが、でも走らずにはいられなかった。
途中、いまだ栄光のゴールを目指してボロボロになりながらも頑張っている「A」のゼッケンをつけたランナーに何人も出会った。
みんなまぶしかった。
石畳に吐いてる人もいた。もはやまっすぐ走れず、夢遊病者のようにフラフラと歩を進めてる人もいた。
それでも・・・いや、だからこそみんな光っていた。オーラを身にまとい、神々しいまでに光っていた。
なのに自分は・・・・・。
・・・悔しい。
…もう一度、もう一度だけやろう。この気持ちを忘れないでもう一度・・・。
一枚のデッサンに淡彩をのせたような往還道の景色を眺めながら、僕は一人そっと誓った。
そして今年・・・
--- 2002年5月2日18時少し前 山口瑠璃光寺。天候曇り。
「エイ、エイ、オー! エイ、エイ、オー!」
萩往還恒例のランナーによる雄叫びが境内に響き渡り、いよいよ4度目の挑戦が始まる。もちろん緊張と不安は少なからずあったが、不思議と落ち着いている自分がそこにあった。
この250kmレースは肩肘張りっぱなしでうまくいく距離でも時間でもないことは過去3回の苦い経験でいやというほど分かっている。悲壮感、使命感などを漂わすことなく、厳しさ、つらさをも含めて楽しむつもりで、のんびり、なんとなく、じわじわ行こう。そう思えば結構リラックスできた。
僕が初めて参加した3年前から、安全のためスタートは50人づつ5分おき(今年は3分おき)に分散してスタートする方法がとられている。自己申告で遅い順ということなので僕はいつも最初のグループでスタートするのだが、今年はその中でもさらに一番前、完全な一番先頭に立ってしまっていた。みんなウルトラではいまや常識となっているかっこいいロングタイツに身を包んでいて、使い古したジャージ姿は僕だけだったのでかなり恥ずかしかった。僕はふとももが太いせいか、タイツはフルくらいならいいがそれ以上だとすぐに股ズレを起こして、かえって走るのに障害になってしまう。今回はスタートから翌日の朝までジャージ、その後短パン(寒くなったらまたはく)、往還道からラストまではこけた時の流血を避けるためロングタイツ、という計算だった。
背中のザックにはカッパ、非常食、地図、筆記用具、ヘッドランプ、予備電池、お金、ケータイ。ボトルとウエストバックは今年は持たず、できるだけ軽量化をはかった。
そして定刻の18:00にゆっくりとスタート。長い長い自分への旅が始まった。
「今年こそきっと帰ってくる…」
毎年のことだが僕は瑠璃光寺五重塔に向かって小さくうなずきながらおごそかに誓った。
最初はもうすっかり見慣れた川沿いの道をとりあえず上郷駅へ向けてゆっくり走る。
しかし・・・調子ははっきり言ってよくなく、体は重かった。今年は2週前まで僕なりのハードトレーニングを行い、1週前には埼玉の家を出発し、北陸、山陰を旅しながら、温泉、マッサージ等で体をリフレッシュしつつゆっくりと現地入りした。その間走ったのは15kmを1日だけ。これがよくなかったのだろうか。
とにかくだるい。先行きは今目の前に広がるどんよりと曇った空のように不安でいっぱいだった。
19:20に13km地点の最初のエイド、上郷駅に到着。あたりはすでに暗くなっていた。時間的には例年と同じなのだが、今年は天気が良くないせいか、暗くなるのが早く感じた。
ここでヘッドランプを装着、夜間走行スタイルになる。昼間なら絶景が広がっているであろう秋吉台付近の遊歩道をひたすら北西へすすむ。なんとなく5、6人の集団走になるのだが、僕の調子はあいかわらず悪くてみんなのペースについていくのがつらく、少ししたらちょっと歩いてやり過ごし、また後ろから追いつかれて集団走、というパターンを繰り返した。ということは僕が一番遅いペースであるということにほかならない。過去のこの時点と比べても今年の調子の悪さは際立っていた。
21kmのエイド、湯の口に20:30。早くも腰を下ろしてゆっくり休む。とにかく回復を信じてマイペースですすむしかない。
車道を左に折れ、両わきが田んぼの農道に入る。カエルの大合唱だ。カエルたちがみんな僕に大声援を送ってくれてると勝手に想像するとちょっと気分がよくなってきた。大集団に追いつき一番うしろにつける。みんなのライトで明るかったので、申し訳ないが電池の消耗を押さえるため自分のヘッドライトをスモールにシフトさせてもらった。自分の吐く息だけ聞きながら暗闇の中を黙々と走っていると、また萩往還に挑戦しているんだという実感に満ちてきて、なんだかうれしかった。
28km下郷エイド、21:10着。わけもわからず飛ばした初挑戦のときは除くとして、例年並かちょっと早いペースだった。少し復活してきたのだろうか? 自分の調子がよくわからない。まあ調子が良かろうが悪かろうがとにかくただひたすら前に進むしかないのだから、いちいち一喜一憂しないよう決める。
その後マップに載っていないエイドを過ぎ、国道に出てしばらくすると、道路際のガソリンスタンドのテレビモニターでサッカーのホンジュラス戦を放映していた。当然勝ってるんだろうな、と状況が気になって立ち寄るとなんと2?3で負けていた。ちょうどアレックスが敵陣に切り込んでるところだったので、思わず見入ってしまった。なんだかんだで10分は見てしまっただろうか。本来の目的を思い出し、代表選手にちょっと元気をもらってコースへ復帰した。
しかし、あいかわらずだるさはかわらない。38km門村ガソリンスタンドを22:25、元気な地元女子高生がいていつも楽しみな44km西寺交差点エイドに23:20着。砂糖とミルクをたっぷり入れてもらったコーヒーを飲みながらケータイの電源を入れ、メールを受信した。10通くらい来ていて、それらを一気に読むとなんだか気合いが入ってきた。
エイドの人たちに別れを告げて気分一新走り出す。もうフルマラソン以上の距離を走っているのだが、この萩往還に関していえば、あと残り200km 以上、まだまだ序盤といったところである。
踏み切りを渡り、右に折れると本格的な登りが始まる。ある程度はゆっくりじわじわ走って登るが、ちょっとでもきつい場合、無理せず歩く。長い登りがどうにか終わると今度は下りだ。ダメージは登りより下りの方が蓄積するので、慎重にゆっくり下る。
上田代のエイドを過ぎ、右へ進路をとって、白根川にぶつかってからT字を左に曲がる。日付はすでに5月2日から3日へと変わっていた。
あいかわらず走りは重い。さらに呼吸も苦しくなってきた。息を吸い込むとなんだか肺が痛くて、思いっきり吸い込めないのだ。まだ54?55kmあたり。「リタイア」という考えたくもない文字が早くも脳裏に浮かんだ。
荒川橋を渡り大きな通りのアップダウンを越えると鋭角に右に折れ、山本ボート石切亭への登りが始まる。考えてみれば上田代からずっと他のランナーと出会うこともなくほとんど一人だった。もしかしてもう後ろには誰もいないんじゃないか、と思いながら登りをずっと歩いた。
1:35、57km豊田湖山本ボート着。中は結構ランナーでごったがえしていた。不調とは裏腹に腹は減っている。僕は食券を出してうどんとおにぎりを受け取り、あっというまに平らげた。僕の食べっぷりを見ていた隣の人が苦笑いしながら「自分は食欲ないから」といってほとんど全部をくれたのでそれも平らげた。
胃腸は絶好調だし、足のダメージもないものの、とにかくかったるい。その後20分近く休んで出発する。例年ならこのエイドを出たときはブルブル震えるくらい寒いのだが、今年は異様に暑い。ここまで調子のあがらない一つの大きな原因であった。
靴ヒモをもう一度チェックしていると、少し離れたところでストレッチしている40代くらいの男性からの熱い視線を感じた。
「あのう、すいません、この先少しご一緒させていただいていいですか?」
この人は萩初挑戦、しかも夜間走行初体験ということでこの暗闇に不安になってしまったとのことだった。ランナーぽくない僕ならペースも遅いのではないかと思ったかもしれない。僕はどっちかというと夜は逆に一人きりで自分の世界に浸りながらマイペースで走るのが好きなのだが、この萩往還のコースは峠道の連続で街灯などない真っ暗闇の道が多く、確かにそれが苦手な人の不安もよくわかるので、2人で走り始めた。
「いやー4度目の人と一緒なら心強いですね」
「いやいや3戦全敗ですから僕じゃ全くあてにならないですよ」
「しかし町中の夜とちがって山の夜を走るというのだけで圧迫感があるので・・・」
聞けば100kmはもう数えきれないくらい完走してるという。僕よりもはるかに経験豊かなランナーのようだった。ただ、この大会は100kmまでとは何もかも違いすぎる。特に初めてだと、暗闇のラン、荷物を背負ってのラン、地図を見ながらのラン、など様々な要素が見えないプレッシャーとなる。睡魔との戦いもある。
この人はすでに左足をひきずり気味だった。僕の用心した西寺からの登りの後の長い下りを一気に駆け降りてその時ヒザをやってしまったらしい。不調の僕よりもさらに遅く、普通に走ってると後方に遠ざかってしまう。
まあ先も長いし調子も良くないのでのんびり行こうと、その人に合わせてペースダウンして走った。
実はこの山本ボートから俵山温泉までの区間は僕の大好きなコースのひとつだ。暗闇に浮かぶ豊田湖がとても美しい。とくに3年前はちょうど満月で、月明かりに照らされた湖面は妖しい光を放っていてそれはそれは美しかった。
「そういえばあの時はライトもいらないくらい明るかったな・・・」
過去の記憶をたどりながらゆっくりと走った。
湖が細くなり左岸側に進路をとるころ、前方に赤い点滅シグナルが見えた。ランナーだ。それはみるみるうちに近づいてきて、歩いてるとわかった。
僕と一緒に走っていた人は、やはり内心僕に申し訳ないと思ってたらしく、
「あとはあの方と一緒に行きますので、私に気にせず先に行ってください。ここまでほんと助かりました」
といって走るのをやめて歩きはじめてしまった。いい話し相手となってもらって僕にとってもよかったのだが、体調もやや持ち直したし、気にすると逆に悪いので、あいさつをしてまた単独走にもどった。
2:40、66km俵山温泉。こんな深夜にエイドを開いてくれていて毎年のことながらホントに頭が下がる。エイドと自販機でたっぷりと水分補給して小さな温泉街を左に折れると、昨年まではなかった新しい道との分岐に遭遇。ここで5人ほどの集団走となる。みんな戸惑っていたが、話し合って無難に昨年通りの旧道の方を選択。小さい丘を越えて下ると、さっきの新しい道と合流した。どうやらバイパスのようだった。来年は新道の方が平らでよさそうだ。
そしていよいよ砂利ヶ峠(じゃりがたお)への激しい登り。僕はこの集団に無理について行かず、全部歩いた。
峠を越えると今度は急な下りが続く。過去はいつもここでガンガン飛ばして足にダメージを負ったので、今年はゆっくり慎重に下る。その間3〜4人に追いつかれ、少ししゃべった後、追い抜かれて行った。
4:10、76km大坊ダムエイド。ここはおいしい豚汁を出してもらえる毎年楽しみにしてるエイドのひとつだ。いつのまにか強風が吹いていた。僕らランナーには風がちょうど心地よいくらいだが、エイドの人達にとってはとても寒くつらそうだった。僕らのためにこんな吹きっさらしで…。豚汁にみんなの「気持ち」の隠し味。頑張るぞ!
大坊川に沿ってずっと下り、久々に見る信号の交差点を左折、だらだらした登りを登りきって右折し、油谷大橋を渡る。あたりはすっかり明るくなっていた。
このあたりから海湧食堂まではいやらしいアップダウンが続く、僕の苦手な区間だ。登りは「あの電柱まで頑張ろう」と小さな目標設定をしてその後は歩く、という走りを繰り返した。でも例年よりは足のダメージは明らかに少なく、登りも走れる距離が長かった。
5:45、86km海湧食堂。例によって食券を渡しておかゆ定食を食べる。梅干がたまらなくうまい。食べたら急に睡魔が襲ってきたので、奥で15分横になる。結局この食堂には30分いて6:15に出発。ちょっと足が固くなって最初は走れなかった。さらにジャージといえどやっぱり汗などで濡れてくると股擦れが発生して、走りづらくなってきていた。やばい傾向だ。
川尻への分岐を過ぎて、漁協前のエイドで荷物を下ろす。ここから俵島へはチェックシートだけ持って空身で行く。僕が三年分の書きこみでいっぱいの地図を見ていると、エイドの人が「何度も出場されてるんですか?」と声をかけてきた。
「ええ、今年で4度目です。でも過去3回ともリタイアしてまして・・・」
「そりゃ無理ないですよ。普通じゃないですよね、この距離は。私なんか尊敬しちゃいます。みんな修行僧のようですもんね。でもそれだけ苦労してれば完走したとき喜びもひとしおじゃないですか。頑張ってください」
「はい!とにかく今年は絶対にギブアップしないつもりです。今までは自分に負けたのが悔しくて・・・」
急にこみあげるものがあった。ほんとに突然という感じだった。でもひょんなことで今年こそは!の思いを再確認できた。行くぞ。
折り返してくるランナーと次々にエールを交換し、俵島へ向けて黙々と走る。
俵島折り返しへのラストはこれまたとんでもない登りが待ってる。全部歩きたおし。狭い農道の両わきに小さな田んぼがあってときたま牛があくびをするようなリズムで「モォーーッ」と鳴く。僕の大好きなのどかな光景だが・・・あいかわらず登りはめちゃくちゃ急だ。しかし!なんと後ろから来た人はこの坂道を走ってる!超人をみた思いがした。でもこの坂を走れるのになんでこんなポジションで走ってるんだろう??さっきの人が言ってた「修行僧」という言葉が思い浮かんだ。その姿は自ら荒行に挑んでる行者そのものだった。
そして8:05、どうにか97km俵島案内板着。チェックシートに備え付けのパンチで穴を開ける。その近くには2年前から毎回軽トラに水とキャンディーを積んで私設エイドを開いてくれてるオバチャンがいた。二言三言言葉を交わし、ポリタンの水をもらう。この水がなぜかすごくおいしい。3杯もらって元気百倍、来た道を戻る。今度は当然急な下りだ。足が壊れないよう、慎重に下る。
下りきって少し行ったところでクニさんとすれ違い、軽く挨拶した。いつもこのあたりですれ違い、川尻への登りで抜かれる、といったここ2年のパターンと今年も同じになりそうだ。
ようやく100kmを超えた。あと150km。残り距離を考えると気が遠くなるのであまり考えないようにする。この一瞬一瞬を大切に、味わうように生きていこう。
そして荷物を置いたエイドに戻って一休み。
「番号と名前、覚えましたからね。完踏者一覧にきっと名前が載ることを祈ってます。それみて私にも祝杯あげさせてください」
エイドの人がいう。涙がちょちょぎれるほど嬉しかった。
「3回もリタイアしてる僕が完走しますなんて軽々しくいえないけど、これだけはいえます。今年は死んでも最後まであきらめません!とことん行きますよ!ありがとー!」
応援してくれる人がいるということはそれだけで力がわいてくる。そして、たとえ遠く離れてても僕の朗報を心待ちにしてくれてる仲間達がたくさんいる。・・・行くぞ!これからが本番だ!
農協の分岐を左に進路をとり、しばらく行くと川尻への長い登りが始まる。いつもはこの区間はほとんど歩きっぱなしなのだが、今年は違う。遅いながらもちゃんと走ることができた。前半のスローぺースと、上り下りの慎重な走りが足のダメージを軽減させているようだ。疲労はもちろんあるがなんとなくいい感じだ。
しばらくいくと、地図をみながらわき道を探している人がいた。UMMLのシャツを着ていたのであいさつすると、
「川尻岬の分岐ってまだですか?」と聞いてきた。
僕も初めてのときはこの区間はずっと登りでスローペースのせいか、行けども行けども川尻に辿り着かないので、もしかして通り過ぎちゃったんじゃないかと不安になった。
軽くお互い自己紹介。大阪の武内さんだった。
「堀口さんはまだまだ余裕ですねー」と言われた。僕の走りが異様に元気に映ったらしい。疲れてはいるけど、確かに気分は前日よりよかった。ここから先はずっと景色がいいのも気持ちを盛り上げてくれる一因だ。
分岐を左にとり、強烈な下りをじわじわ進むと一番先っぽにあるのが川尻岬沖田食堂。107km。遠くから僕のゼッケンを確認した子供が親切にも預けておいた荷物をもってこっちに向かって猛烈な勢いで走ってきてくれる。お母さんが、「こらだめでしょ。早く渡したってお兄ちゃん重たいだけなんだから!」と叫んだ。確かにその通りだが、でもその気持ちが嬉しかった。
9:35着。忘れないうちにチェックシートにパンチをあける。やっぱり登りを走れてたせいで、昨年一昨年の通過時間をここへきて15分上回った。そういえばまだクニさんの姿がみえない。いつもはもう追い抜かれてるあたりなのだが・・・。
またもしっかり腹が減ってたので、すかさずカレーを頼み、かっこむ。あらかじめポリタンのそばに陣取ったので、その間に水を何杯も飲み続ける。そしてディクトンを塗り直し、短パンにはきかえ、出発。萩往還で短パンで走るのは僕ぐらいだろうが、股擦れをこれ以上悪化させないためにはしかたない。幸いなことに寒くはないので迷うことはなかった。
毎度のことだがさきほどの下りは今度は登りとなる。もう登りは走る力が残ってないので、登りになると自分の中で歩く大義名分ができて逆に楽だったりする。躊躇なく上まで全部歩く。先程の武内さんはゆっくりながらも走って僕を抜いていった。
分岐まで戻った後、今度は進路を左にとり、しばらく牧草地の景色を楽しみながら走っていると、今度は川尻港への下り。ここの下りは萩往還のコース随一の急な傾斜を持ち、調子をこいて一気に下ると後でひどいめに遭う。こんなときは登山の要領でジグザグ走行して少しでも傾斜を緩和する。
ここで、なんと俵島の登りを走っていた超人にまた抜かれた。いつのまに僕の方が前にいたのだろう??下りの走りもすごくしっかりしていたので、もしかしてこの人、ほんとに修行のため何回も行ったり来たりしてるんじゃないか?という気がしてきた。
そうこうしているうちに武内さんに追いつき少し並走する。武内さんもさすがにこの下りは難儀そうだった。
川尻漁港にでるとおばあちゃんに話しかけられた。さっきからザックを背負ってゼッケンをつけた人たちが何人も走っていくので何の祭りかと思ったらしい。
あまりに長大なこの大会、日本海側ではこんなレースが行われていることは知らない人がほとんどなので、何事かと思う沿道の人々は多い。
「どこから来たのか?」「どこまで行くのか?」「いつから走ってるのか?」
僕はひとつひとつ質問に答えて説明していく。山の向こうの瑠璃光寺から夜通し走ってきて、このまま萩まで行って往還道の峠を越えてまた瑠璃光寺まで戻ると言ったら、おばあちゃんはにわかには信じられない様子だった。と同時にボロボロになっている僕にひどく同情的。僕が自ら望んでこれをやっているとは思えなかったのだろう。
「確かに端から見たら理解に苦しむ光景だろうな。僕はなんでこんなことやってるんだろう??と、自分でも疑問になるくらいなのだから」
正直、僕は走ること自体はあまり好きではない。練習もできることならやりたくないほうである。しかし・・・あの、苦難を乗り越えた時の圧倒的な充実感。自分の全てをありったけ注ぎ、ぶつけて、消費して、その後には何もかも残らないような感覚。
そういったものが大好きなことだけはわかっている。
・・・でもほんとうにそのためだけに僕はやっているのだろうか?・・・
萩往還に関してだけはそれのみではない、もっと大きな何かを求めているような、そんな感覚が自分の中にあった。
10:50、113kmシーブリーズ着。僕の少し前を走っていた人はここを素通りしていったが、僕はもちろん小休止。ドリンク券を出してアイスコーヒーを注文する。さすがにさっきの川尻港への下りで足はだいぶ疲労してきた。少しのんびり休息し、軽くマッサージをほどこして出発。空はいよいよ怪しい雲行きになってきていた。
また結構いやらしいアップダウンを繰り返して11:40、117km立石観音着。海に張り出した奇岩の織り成す風景が美しい。ここはチェックシートに備え付けのマジックでしるしをつける。
小さい男の子3人をつれたお母さんが応援してくれていた。子供たちはみんなくりくりっとした目をしていてとてもかわいい。
「さっき走ってる人に聞きましたが、250kmなんだそうですねえ。私には想像もつかない。人間がそんなに走れるなんて信じられないし、ほんとすごいですねー」
「いやーただの物好きの集団です」
だいぶ疲れていたのでジュースを飲みながら少し話し込んだ。子供たちがもの珍しそうに僕を囲んで眺めていた。
たぶん6才くらいだろうか、一番上の子が少し照れながら
「頑張ってねー」っていうので「うん、頑張るようー」ってガッツポーズをとると、今度は一番下の2才ぐらいの子がにこにこしながらなにか言おうとしている。
「おにい、ぐんばぁ、ぐんばぁ」
ありがとう。ちゃんと聞こえたよ。僕の心に届いたよ。ありがとう。
(オニイチャン、ガンバレ、ガンバレ・・・)
まだ覚えたてのたどたどしい言葉の向こう側に、百人の声援に勝るとも劣らないあたたかい「心」が見えた。
言葉にならぬ力が満ちてきて、言葉にならぬ疲労がひいていく。僕はまだ大丈夫だ!
「オニイ、グンバァ、グンバァ!」
僕は言葉をまねて言いながらその子にVサインをした。
「グンバァ!グンバァ!」
やるぞ。あと何kmあろうが関係ない。この子の応援に応えるためにも何が何でもこの足で瑠璃光寺へ帰還してみせる。
お母さんや子供たちと手を振って別れた後、道はまた海岸沿いのアップダウンを繰り返し、いよいよ千畳敷への急勾配となる。長さも長さだが特に最後の勾配はたぶんピンピンしてるときでも走れない凶悪なものである。全く萩往還というやつは・・・。
登りを歩き倒している頃、ついに空が泣き出した。雨粒も結構大きい。あわててザックからカッパを取り出して着る。
13:10、千畳敷頂上着。125km。全行程のようやく半分まで来た。雨は心持ち小降りになり小康状態といったところ。風が強いのでチェックライターにパンチして早々に下る。この下りがオニのように急でオニのように長く、僕にとって萩往還コースの中でも指折りの苦手な区間だったりする。できることなら横になって転がっていきたいくらいだ。足はもうかなりきている。ジグザグ走行と後ろ向き走行を併用して少しでもダメージを少なくするようつとめた。
傾斜が緩くなったあたりで雨の勢いが増してほとんど土砂降りの状況となった。雷も鳴りだしていた。すぐ先にエイドがあるので急ぐ。
13:55、129km西坂本集会所エイド。2年前に千畳敷からここへ移り、地元の女子中学生らがカップ麺とホットドリンクのサービスをしてくれる楽しみなエイド。「緑のたぬき」と砂糖ミルクたっぷりのコーヒーを頼んで奥の座敷へといれてもらう。マッサージをしながら体の状況をチェックする。昨年ほどではないもののかなり疲労していた。雨はあいかわらず激しく降っていたので、雨宿りも兼ねて少し休む。
しかし、30分たっても雨の勢いは衰えず、少し寒くなってきたので出発することにした。玄関で靴をはいていると、ずぶぬれになったクニさん登場。「いやー参ったけど、涼しいからいいねえ」とニコニコ。僕が場所を譲ると「いってらっしゃーい」と肩をたたいてくれた。
雨の路上に出るとエイドの子が、
「これお守りです。無事ゴールできること祈ってます。頑張ってください」
といって花を一輪渡してくれた。
人間極度の疲労の中にいると、「やさしさ」「思いやり」に対する感度が非常に高くなる。涙がちょちょぎれるほどこの子の「心」が嬉しかった。土砂降りの中を前に進む勇気が湧いてくる。さあ行こう!
スコールの中を何も考えずにひたすら行く。幸い雷は遠ざかってるようだった。側道には大きな水たまりがたくさんできていて、よけれるものはよけて走るがそのまま突っ込むしかないところも多く、もう靴はぐちょぐちょになってしまった。カッパは上しか着てないので短パンもぐちょぐちょになり、股擦れ、というか尻擦れが激しくなってきた。
黄波戸峠への緩い登りを過ぎ、ちょっとした下りを過ぎるとまた海へ出る。ここから長門まではこのコースで珍しくほとんど平らな区間なので多少無理しても歩かないようにする。
長門市の町中を抜け、つきあたりのT字を左に折れて少し行くと、143km仙崎のエイド。16:40着。いつのまにか雨は上がっていた。ここからは4時間近い青海島鯨墓への往復だ。ここで俵島同様荷物を置き、カッパとお金と食券とチェックシート、そしてヘッドランプを持って出発する。青海大橋を渡って青海島へ入ると例によってアップダウンが延々と続く。ここでつらいのは復路もアップダウンをたっぷり味わなくてはならないということだ。折り返してくるランナーのあいさつの声が心なしかはずんでいるように聞こえ、かなりうらやましかったりする。
148kmのエイド、静ヶ浦キャンプ場は帰りによろうと思って素通りし、ひたすら鯨墓を目指す。黒瀬峠の激しい登り下りを終え、もうひとつ小さい丘を越えて港のわきを進むとようやく折り返し地点の鯨墓到着。153km地点18:35。チェックシートにパンチを打つ。ついに残り100kmを切った。あと少しだ!・・・とはどう自分にうそをついても思うことはできない・・・。エイドのわきで先に着いていたランナーの一人が青い顔をして横になっていた。エイドの人が心配そうに見守っている。
「もう20分もああして寝てるんですよ」
その時むくっと起きだしてきたので僕も様子を聞いた。
「ここまでいい感じで走れてたんだけど、急にめまいがして・・・。貧血かも。とにかく寒い・・・」
確かに雨も降ったりやんだりだし、昨日よりは涼しいが、寒いということはなかった。極度の疲労からくる悪寒だろうか。自分もボロボロなので本当はそれどころじゃないのだが、ひどく心配だった。
この萩往還250kmというのは他の100kmとかの大会とは明らかに雰囲気が違う。参加人数もそれほど多くなく、出場している人はみな「戦友」という感じで、僕だけが勝手に思ってるのかもしれないが、間違いなく大きな連帯感がある。苦楽を共にしてみんなで助け合ってみんなで栄光を手にしよう、という一体感だ。追いついたり追いつかれたりしたときも必ずといっていいほど話込むことになり、素通りということはほとんどありえない。普段日常ではあまり意識してない「絆」という一字を強く感じることが出来る。
「静ヶ浦まで歩いて戻り、そこでリタイアします」
その人はよろよろと立ち上がり、歩きはじめた。僕も疲れていたので一緒に歩く。しかしまだその人の顔は青ざめ、足下はふらついている。案の定少し行って立ち止まり座り込んでしまった。心配であったが僕にどうすることもできず、静ヶ浦でエイドの人に伝えるためナンバーを控え、先を行くことにした。
しばらく行くとクニさんとすれ違った。HPに載ってるいつものクニさんのペースならとうの昔に僕より前にいってるはずであった。
「いつもよりかなりゆっくりなんじゃないですか?」
「そうだねえ、ちょうど1時間くらい遅いかな」
「どっか調子悪いんですか?」
「いやあ、疲れちゃって」
言葉とは裏腹に、もはやいっぱいいっぱいの僕と違って余裕たっぷりという感じだった。まあ連続完踏記録更新中の鉄人に僕のようなど素人の心配など無用である。それよりも僕より後ろを走っていてくれてること自体が、僕も充分完踏ペースなんだとほっとさせてくれた。
クニさんとすれ違った後、登りを歩いてるとついに恐れていたものがやってきた。睡魔だ。無理もない、もうスタートから24時間以上経過している。ただでさえ睡眠欲が人一倍旺盛な僕のこと、ここまで順調だったのが不思議なくらいだが、まだ先は長い。静ヶ浦まではなんとか行って少し休むことにする。
19:25、先程素通りした静ヶ浦キャンプ場着。157km。ノートに到着時間を書き込み、うどんをたのむ。ここはマップには「仮眠」と書いてあるが聞くと横になるところはないという。仕方なく食べ終えて外の平らの所に横になる。また雨が降り始めていた。このあたりで陽は完全に沈み2度目の夜を迎えた。気温も下がったのか寒くなってきたので休んでいられず、ヘッドランプを装着して出発する。さっきの人は大丈夫だろうか・・・。
来たときとは逆のアップダウンをひたすら戻り、20:40、再び仙崎エイド着。163km。コーヒーを飲んで荷物を再び背負って出発。雨はまた止んだ。
さきほどの青海島の往復もそうだが、このへんまで来ると初挑戦の年しか走ってない区間なので、道の記憶もあやふやである。記憶にないへんな道をクネクネ曲がり、未舗装路に出たときはさすがに間違ったかと思ったが、踏み切りを渡り国道に出るとランナーの姿が見えたのでちょっとほっとした。
ここから宗頭までは長い長い一本道。ひたすら行く。3年前の記憶がよみがえる。あの時は歩く力さえほとんどなく、完全に気持ちが折れて圧倒的な絶望感、敗北感、屈辱感を味わっていた付近。今年は・・・ゆっくりながらもまだ走れている!やれるぞ。大丈夫、まだやれる!
23:00少し前、175km宗頭文化センター。ついに来た!3年前のあの地点へ。今ようやくあの「時」へ戻った。なんの躊躇もなくリタイアした自分への強烈な悔恨。この地に落とした大切な大切なもの。そう、ここからがそれを取り戻す旅の本当のスタートである。
しかしはやる気持ちを抑え、僕はスタート前に思い描いていた計画通りここで1時間の仮眠をとることにした。おにぎりと煮物の手作り弁当をいただき、24時に起こしてもらうことをお願いすると、早々に床に入った。屈辱とともにくるまって泣いた毛布・・・。今年は違うぞ。まだ闘志は燃え盛っている。とにかくここは先のためにも寝よう。
0:00ジャストに起こしてもらい、眠い目をこすりながら支度をし、0:10頃出発。往還道から先は去年ゼッケンなしで走っているものの、実質ここから先は未知の領域だ。眠気と疲労はあいかわらずだが、心は結構踊っていた。幸いにも雨は上がっていた。
0:40、藤井酒店着。チェックシートにマジックでしるしをつける。ここから鎖峠まではまた激しい登りとなる。日付はスタートして2日後の5月4日、泣いても笑っても今日この1日しかない。残りはまだ72km、果して自分はやれるのだろうか。
前にも後ろにもランナーの姿はなかった。藤井酒店には5〜6人いたのだが、そこで僕が自販機のジュースを飲みながらゆっくりしているうちにみな行ってしまった。眼前には目を開けても閉じても変わらないような深い闇が広がっていた。静寂。孤独。僕の吐く息が闇に吸い込まれていく。
「僕はなんのためにこんなことをしているのだろう…」
孤独の中に身を置いていると、またいつもの疑問がわいてくる。
メディテーションにも似た心境になるといつも思い出すのが高橋佳子さんの言葉だ。
そもそも人は何のために生きてる?
なぜ自分はこんなことをしているのかという問いはそれと同義語か。
つらいことがあった日より、厳しいことがあった日より、何もないただなんとなく過ぎた日の方がずっとつらいことがある。
耐えがたいほどのむなしさ。いいようのないあせり。
僕は何のために生きているのか。
何のために生まれてきたのか。
走ることが好きなわけでもない、強靭な肉体をもっているわけでもない、輝かしい成績が残せるわけでもないレベルの低いランナーである自分が走っている意味。
病気なのかもしれない。「何かをしてなきゃいられない症候群」。
確かなのは身を削るような思いをして得られる「いのち」の実感。
なんでもいい。目標が欲しい。
何かに打ちこんでる自分が欲しい。
怠惰な自分と戦って、克つ自分が欲しい。
極限の疲労と瞑想の先に、きっと「いいもの」があると信じて僕は進んでいる。
1:20、鎖峠。ここからずっと下り。もう最後まで電池ももつだろうと、ケータイの電源を入れるが残念ながら山奥のため圏外。萩往還の掟、強烈に登った後に必ず来る強烈な下りを延々と行く。
「三見」の標識を鋭角に左折、平らで新しい道路を三見駅へ向かう途中、ケータイのアンテナが立ったようで、今までのたまりにたまったメールの着信音がひっきりなしに鳴る。
「連絡がないので少し心配。ファイト!」
「今どのへんなのでしょう?雨は平気ですか?」
「頑張って。まだ死んだらだめ」
「雲と嵐の後の虹のように…戦いのない勝利はない!頑張れ!負けるな!」
「あなたの夜明けは明るいからね!私も頑張る!」
「最後まであきらめず頑張って!大丈夫、やれるよ!」
「行け!行け!堀口!絶対やれるぞ!」
「俺達の期待の星!調子はどうだ?帰って来たら一杯やろうぜ!お前のおごりで。」
「体調は?雨は?夜の後には必ず朝が来るから頑張って!」  
「頑張れ!頑張れ!頑張れ!」
…嬉しかった。前も後ろも誰もいなかったので我慢することなく僕は泣いた。自分自身の道楽のためにこんなに多くの仲間が応援してくれている。僕は一人じゃない。こんなに嬉しいことはなかった。今年こそは…。今年こそは…。
みんなのためにも何とかしたい…。
もはや心身ともにボロボロだった僕の体に間違いなく「Force」が注入された。
2:30、187km、三見駅着。チェックシートにマジックでチェック。駅の待合室に無人のエイドがあった。給水していると便意をもよおし駅のトイレへ直行。2日ぶりの脱糞だ。田舎駅独特のポットン便所ですっきりした後、出発。
この道でいいのかな、と不安になるほど細い道を行くと、こんな時間にもかかわらず山の中の真っ暗な地点でエイドを開いてくれている人がいた。少し話し込むとこの土地の人間ではないけどなぜかいつもお声がかかって自分しかいないという使命感に燃えてやってると冗談交じりで語ってくれた。ここまでくると通るランナーもまばらでさびしいことこの上ないはず。ほんとうに頭が下がる思いがした。
踏切を何回も渡り、海岸線に出ると目指す萩の街の夜景が見えた。先ほどのメール効果か、体が妙に動く。5〜6人の集団に追いつき、先行させてもらった。
もうすぐ玉江駅、というあたりで僕はぎょっとした。道に大の字になってランナーが倒れているのである。ま、まさか…。と思ったらその人は僕の足音に反応してむっくりと起きあがった。
「いやー眠くて眠くて」
見た目僕よりも若い。この萩往還ではめったにない光景だった。少し並走しながら話をする。完踏経験のある人だった。
「この時間にここまできていれば普通に行けばまず間違いなく完踏できますよ。絶対にやっちゃいけないのは動けなくなることです。その時は終わりですから」
この人はそう言った。完踏ペースであることは嬉しい。しかしもうボロボロのこの体がいつ動けなくなるかわからない。この先の不安がぬぐい去れたわけではなかった。
194km、玉江駅。(到着時間不明)駅の待合室にシートが引かれ臨時の仮眠所となっており、5人くらいのランナーが横になっていた。一緒に到着した人もそのまま睡眠。僕も少し休むことにし、15分後にアラームをセットした。
眠れたんだか眠れてないんだかわからない15分を過ごしていると、外が騒がしい。なんとまた雨が降りだしていた。今度は激しい。仕方なくカッパを出す。
足が重い。眠い。だるい。ずぶぬれの体がうっとおしい。折れそうになる気持ちをつなぐために僕はただひたすら雨の中走った。
常磐大橋を渡り、いよいよ萩の町に入ったころ、雨のためにザックの奥底にしまっていた電話が鳴った。しかし、閉まってる店の軒先でザックから出すのをモタモタしているうちに切れてしまった。着信履歴を見るとウルトラ仲間の鹿毛さん。こんな夜も明けないうちから電話してくれるなんて、とすぐにかけなおした。
「どうですか?調子は?」
「いやーもう足動かなくて・・・」
「これから往還道ですね。もうクライマックス、あと少しじゃないですか」
「いやまだ笠山も残ってて・・・」
景気のいい言葉はひとつも出てこなかった。でも僕の一番厳しい時間帯を予想してこんな早朝にもかかわらず励ましの電話をくれた鹿毛さんのやさしさ、それが痛いほどわかったのでまたジーンときてしまい、ちょっとパワーがよみがえってきた。
「でも・・・たとえどうなろうと、僕は絶対に、絶対にあきらめないですよ!見ていてください!」
そういって電話を切った。雨はあいかわらず激しく降っていた。
平らな道をひたすら進み、周囲はすっかり明るくなりヘッドランプがいらなくなった頃、雨はほぼ止んだ。しかしどす黒い雨雲は次から次へと流れてくる。天気が回復している傾向はなく、今日はこのまま降ったり止んだりがずっと続きそうだった。
ようやく越ヶ浜に入り、笠山が目の前に迫ってきた。明神池を眺めながらチェックポイントへ向かう。予想通り強烈な登り。よかった。歩ける。
また雨が降りだす。でも景色は最高だった。雨は降っていても雲の位置は高く、展望はきいた。今まで歩んできた千畳敷からの海岸線の壮大の景色が広がっている。あんな遠くから来たんだ・・・。感慨深いものがあった。
6:25、204km笠山着。シートにパンチを打つ。すぐにクニさん登場。やっぱり余裕そうだ。僕は思わず「もうここまでくれば大丈夫ですよね?」と聞いてしまった。
するとクニさんは「うん、大丈夫でしょ」とあっさり。透明なかっぱをなびかせながら颯爽と来た道を下っていった。
僕はもはや下りもまともに走れず、じわじわゆっくりと歩を進めた。
7:00、207km虎ヶ崎食堂着。笠山からすぐ近くであるものの、ここもチェックシートにパンチ。食券を出してちょっと迷って「さざえめし」を頼む。さざえの量こそ少なかったがなかなかおいしかった。食べているとまたバケツをひっくり返したような土砂降りの雨。でもいまさら雨宿りする意味もないので身支度して出発する。
虎ヶ崎はこの小さな半島のちょうどさきっぽあたりにあるので、来た道を戻ってもつまらなくて疲れるから帰路はそのまま進行方向に進む。道は未舗装路になったが快適。ぐるっと回って明神池に戻るまでずっと歩く。
明神池に戻ったあたりでクニさんと2人のランナーに追い越された。ついていこうとも思ったが、僕にはちょっと速すぎるので3人の背中を見ながらじわじわ走る。
それほど離れずに走り続け、そのおかげで心配していた東光寺までの道も迷うことなく、8:50、215km東光寺着。チェックシートにパンチし、これでチェックシートは全て埋まった。あとはいよいよ往還道をこえてゴールに向かうのみだ。
川沿いの来た道を戻り、松陰神社へ。140kmや70kmの部のトップランナーの姿がちらほら見えだした。その中で一人道に迷ってる人がいた。
「こっちの道でいいんですかね?いやー地図には松陰神社の後に橋を渡るとなってるんですが、どこにも見当たらなくて・・・」
あまりにもまじめすぎるために生じた迷い。僕などは最後のチェックを東光寺で終えたため、後は山の方へ向かえばなんとかなるとしか考えてなかった。どうせそのうち「山口まで何km」の道路標識があるだろう、と。
少し並走して話をした。その人は250kmなんて距離は信じられないと言っていたが、僕からするとあの往還道を往復するなんてそっちの方が精神的に厳しいんじゃないかと思った。それを裏付けるように、毎年の完走率も140kmの部が一番悪いのだ。
さすがにその人のペースにはついていけず、ちょうど自販機があったのでそこで先に行ってもらった。
大きな高架を渡り、萩の町中を行く。毎年この時期は萩焼き祭りをやっていて結構にぎやかだ。有料道路入口をまっすぐ行かずに左へ進路をとる。この辺りから今朝往還道を越えてきた他のカテゴリーのランナーたちの熱烈な声援を浴びる。
「ごくろうさんー!」
「すごいですねー、がんばってー!」
みんな僕らのここまでの激闘を知っているから拍手しながら応援してくれる。本当にありがたいし、とても嬉しかった。僕は一生懸命手を振ってこたえた。ちょっぴり「A」のゼッケンをつけている自分を誇りに思ったりした。
ひっきりなしに前からランナーがくるので、おちおち歩いてもいられない。でも現金なもので声援に気を良くして、力などもはや残っていないはずなのに登りでさえも走ることができたりする。
思えばこれがまともに走った僕の最後の姿であり、僕の本当の、凄絶な戦いはこれからだった。
料金所エイドを過ぎてきつい登りの中国自然歩道に入る。もちろん未舗装路、いよいよ本格的な往還道へ。
226km明木エイド。(到着時間不明。以降ゴールまで極度の疲労のため時間メモなし)他のカテゴリーのランナーでにぎわっていた。また雨が激しくなってくる。
その後すぐに一升谷の石畳の登り。昨年と違って悪天のため道というよりほとんど川となってる。それは天までのびてるかのような川道。遡上しているサケのように1人、2人とランナーが石畳にへばりついていた。正直もはや僕の体は動かなくなりつつあった。
でも疲労しているのは僕だけじゃない。みんなもボロボロになって頑張っているのだ。なによりこの道はその昔高杉晋作をはじめ維新の志士たちが高き志を胸に駆け抜けた道ではないか。まだだ。僕だってまだやれる!
〜一人ひとりのなかに神が宿っている〜
森のイスキア、佐藤初女さんの言葉。
〜スピリット、マインド、ボディーの調和こそ人間本来の姿である〜
僕の尊敬する登山家、ラインホルト・メスナーの言葉。
僕の大好きな、でも日常では実感できなかった言葉が今すごく身近に感じられる。
自分の中に宿る神。そしてヒトとしての僕の本来の姿。それが見たかったのか、僕は。
ゴールの先には何かいいものが落ちているわけではない。
あるとすればそれは自分の内部にある。
萩往還250kmというのは自分の内部に眠っている水脈を探しに行く旅なのだ。
狭くてもいい。
小さくてもいい。
自分自身の水脈を探し続けて自分自身の井戸を掘りつづける。
…おそらくは中ノ峠付近(詳細不明)。…僕は動けなくなった。眠い。足が動かない。
〜ここまで来て僕は終わるのか〜
ほとんど過去のリタイアの時と同じ状況だった。しかし…今までと違うのは自分の中に大いなる疑問も湧いてきていたことだ。
本当にこれでいいのか?
宮古島ではどうにかこうにか200km走り切ったじゃないか。
沢で鉄砲水食らった時はこんなもんじゃなかったろう。雪崩の端を泳いだ時の恐怖は?
キリマンジャロに登ったときは? カラパタールは?
あの時も、そしてあの時も今より苦しかったじゃないか。
なによりまたあのざらついた悔しさに満ちた毛布にくるまって泣くのか?
俵島手前のエイドの人との約束は? 立石観音のあの子の笑顔を無にするのか? 西坂本で花をくれた中学生には? 僕の朗報を待ってる仲間たちには? 鹿毛さんには?………………………………………………………………………………………………………………………… まだだ!まだ終われない!こんなとこじゃ死んでも終われない!!!
「うぉぉぉぉぉおおおおおおおおーーーっ!!!!」
僕は叫んだ。谷にこだまするくらい叫んだ。
きっと端で見ている人がいたら気がふれたとしか思えない光景だったろう。
僕は立った。立てた。でもちょっとでも気を緩めればまた座り込んで元の木阿弥だ。
行くんだ。進むんだ。動くぞ。まだやれるぞ。大丈夫、僕はまだやれる!
…それは涙の行進だった。
その後、田んぼのあぜ道らしき道を行ったような気がする。道は完全に泥水の中に没していた。靴から靴下からすべてが泥だらけ。足の裏のマメにも泥水が侵入し、容赦ない激痛が走る。でもそれは底無しの睡魔から僕を救ってくれるとても頼もしい苦痛だったかもしれない。雨は一段と激しい降りになっていた。
逆境のない幸福、失敗のない充実、苦悩のない平安、そんなのはみんな幻想だと思う。
目標を持つ、目的を抱く、その時障害が目の前に現れ、逆境に立たされる。
だからなんの障害もないということは何の目的も持たないということに過ぎないのではないか。
雨がなぐりつけ、寒さに身が凍えても「希望」があれば生きることが出来る。「ヴィジョン」があれば全てを受け入れられる。ああ、高橋佳子先生、その通りだ。
236km、佐々並では豆腐を食べた記憶がある。でもそれ以外はあまり覚えていない。
そしておそらくは最後の板堂峠への登りにさしかかる頃、もはや僕は夢の中にいた。眠い。いや眠いなんてもんじゃない。底無しの暗黒の穴の淵に片足はぶらぶら状態で立っているという感じだ。進んでいるのか、戻っているのか、登っているのか、下っているのか、それすらもわからなくなっていた。
気がつくと道端のガードレールに持たれかかり眠っていた。もう足も動かない。
僕はゼッケンをつけてる安全ピンをとりだし、ひざの上部に突きたてた。でもあまり痛くない。なんかどす黒い血がにじむだけだった。
悔しかった。
「足!足!足!もう少しなんだ!僕は負けたくない!頼むからあと少し動いてくれ!頼む!」
泣きながら両足をたたいてもだめだった。動かない。眠い。とてつもなく眠い。
〜このまま寝ちまえば楽だろうな…〜
悪魔のささやきが聞こえてくる。
その後どのくらいうとうとしただろう。何度か他のカテゴリーの選手に声をかけられたような気がする。
そして…………声が聞こえた。間違いなく姿がはっきりと僕には見えた。
「堀口君、冒険とは生きて帰ることだよ」
植村直巳さん???
「自分の力を最後まで信じろ!気持ちを切らすな!体を動かすのは気持ちだ!絶対最後まであきらめるな!」
中野先生…。どうしてここに?
「どうしたんだよ、堀口。らしくないなあ。こんなもんじゃないだろ、お前の力は」
「そうだよ、堀口」
加藤先輩、上田先輩…。
「そうですよ、先輩。先輩のそんな姿見たこと無いし、見たくないですよ」
安田、千葉、細沼…。
「僕らと違う種類の動物、堀口さんなら絶対やれますよ。ガンバです!」
鹿毛さん、黒木さん…。
「頑張って。まだ死んじゃだめ」
「頑張って!信じてる」
「もうちょっとです。ファイト!」
けいこさん、芳美、直美ちゃん…。
「堀口君ならやれるよ。僕の分まで。いつも応援してる」
古賀さん…。
「堀口なら絶対やれるぞ!」
「がんばれ!」
「がんばれ!」
「がんばれ!」
「もう少し!」
「ファイト!」
「ファイト!」
「堀口!」
「堀口!」
「堀口さん!」
「堀口さん!」
「かずくん!」
「堀口さん!」
「かずさん!」
巽さん、時沢さん、深瀬さん、純平さん、米沢さん、福地、渡辺、根本…。
新田君、藤野さん、ちさと…。
立花さん、鈴木さん…。
みんな…みんな…ありがとう…。
でも…動かないんだ…動けないんだ…もう前に進めないんだ…。
「なにいってんスか! らしくない!」
…そうだよな…でもどうすればいい?…
「立て!」
「立つんです!」
「立ってください!そして前を向いて!」
うん…うん…もう少しだよな。もう少し頑張ればいいんだ。
でも…いや、やるさ。絶対にやってみせる。
みてろよ。僕は堀口一彦なんだ。あきらめてたまるか!
…………今思うとこれが幻覚というものだったのだろう。
登山家の手記を読むと必ずといっていいほど出てくる現象だが、僕は冬山で遭難しかかった時もついぞ見ることはなかった。
それが…極限の疲労の先にはやはりそういう世界があったのだ。消えては浮かび消えては浮かび、でもそれは間違いなく実際の存在感というか質量を伴っていた。
文字通り無我夢中で僕は萩往還最高所、板堂峠を越えた。あとはゴールまでひらすら下りだ。
山道なのでこの状態ではほとんど走ることはできない。一歩一歩慎重に歩を進めた。
天花畑へ出てついに未舗装路は終わった。雨もいつのまにかあがっていた。一の坂ダムを回りこむと眼下に山口の街が見えてくる。
涙がとめどもなくあふれていた。
3年前の屈辱。それ以降のさまざまなトレーニング、そしてレースでの死闘、仕事、プライベートでの出来事、それらが走馬灯のように頭の中を駆け巡った。
「よくやったな。かずは昔から頑張り屋だったもんな」
おじいちゃん?!
不思議だね…。「死」を受け入れることが出来ず、恐山まで行っても会えなかったのに…。
今こうして強く感じられるなんて…。
忘れないよ。
大切なこころはひとつ。
いつでもどこでも見える姿がどんなに様々でも、光は失わない。
強さとやさしさを失うことはないんだ!
僕はほめてもらえるよね。頑張ったよね、おじいちゃん…。
…頬を伝う涙の量はさらに増していた。
「かず、男は涙なんか見せるな!」
親父…。あいかわらずだな。でもいいじゃないか。これは今までの悔し涙なんかじゃない。純水よりも透きとおる僕の魂の涙だ!
民家の中を走り、最後の右折をすると、涙のカーテンでかすむ淡彩の景色の向こうに3年前の「あの日」以来死ぬまで追い続けると決めた、恋焦がれた待望の「地」が見えた。
この時をどんなに望んだことか。
この時を何度イメージしてトレーニングしたことか。
何のために生まれてきたのか。
何のために生きているのか。
それは、出会い、関わり、背負い、そして味わい尽くすため。
生きていること自体にはあまり意味はないのかもしれない。
「生きている」と実感することにはかりしれない幸せを僕は感じる。
この「至福の時」に抱かれて、「僕」は「僕」になっていく。
この一瞬一瞬が「堀口一彦」を「堀口一彦」らしく彫刻していく。
「僕」が存在する、その事実の深さをあなどってはならない。
「僕」が存在する、その事実の重さを見過ごしてはならない。
「おかえりなさい!」
「おめでとう!」
少し前から僕の両隣について伴走してくれてる地元の子供達を従えて、沿道の声援のシャワーを浴びつつ、僕はゆっくりとかみしめるように瑠璃光寺境内に入った。
左ななめに伸びるささやかなビクトリーロードの先にウィニングテープが僕を待っていた。
僕は一歩手前で立ち止まりしばし祈ったあと、左手は胸に右手は天へ突き上げて、力いっぱい快哉を叫んでゴールテープを切った。
死闘46時間22分48秒。
今まで生きてきた中で一番厳しく、一番嬉しく、一番誇りに思う、一番大切な出来事だった。僕のような力のないランナーでもあきらめなければ、強く想って耐え続ければ250kmという気の遠くなるような距離でも完踏出来るのだ。
小野さんをはじめとする全ての大会関係者に感謝したい。
そして「こころ」でサポートしてくれた仲間達。みんなみんなに感謝、感謝だ。
思えば3年前のリタイア、あれは失敗でも挫折でもなかった。今回の走りはそれに対するリベンジでも決してなかった。全てはリタイアも含めて今日この日この感動を味わうためのプロセスだったのだ。全部の出来事は今日のこの瞬間のためにあったのだ。
なんのとりえもない自分ではあるが、まさに死に物狂いで完踏した今、ひとつだけ胸を張って叫びたい。
「僕はここにいる!」と。

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