桜色に染まった白いロープ

第13回視覚障害者健康マラソン東京大会に参加して

文/長渕悦子(志穂美悦子)


2002年3月24日、(日曜日)午前11時20分。
蒼く澄んだ昭和記念公園の空に、スタートのピストルが響き渡った。マラソン参加者200名が一斉にスタートする。沿道の応援が歓声に変わった。
最後尾に構えていた私は、先頭が走り出すのをゆっくりと見送り、大きく深呼吸した。何もかもが…今まで経験した大会と同じだった。ただひとつ、大きく違うのは全ての人が、二人ずつ白いロープで結ばれているという事だった。私の右手にも、隣りの男性とを結ぶ白いロープが握られていた。
第13回視覚障害者健康マラソン東京大会。私の初めての伴走レースだった。
その緊張の第1歩を私は…ゆっくりと…踏み出した。
早咲きの桜が満開だった。

2001年夏。セミ達が鳴いていた。
私は代々木公園の東京視覚障害者ランニングクラブの練習に初めて参加した。ランナーズ誌の中で盲人伴走の練習会の記事を見つけたからだ。その二年前私はテレビで初めて盲人伴走の事を知り、心が温かくなった。私の中の何かが、私の足を代々木公園に向わせていた。
公園は緑が一斉に燃え盛っていた。
代々木公園では東京クラブ(略称)の会長岩井貞夫さんを始め、盲人伴走歴20年の鈴木邦雄さん(通称クニさん)が優しく出迎えてくれた。岩井会長ご自身が盲人だとは、すぐには気がつかなかったが、その優しい笑みに少し緊張がほぐれた。還暦を少し廻ったぐらいの御歳でしたがやはり走り込んでいらっしゃるだけあって立派な脚をされていた。20名ほどの練習会に来ていた盲人の方たちは足早にパートナーと公園内ロードを駈け抜けていった。私はまずは伴走の説明、注意等を聞かせて頂けるのかと思っていた。

走りましょう!私と一緒に!」
突然の岩井会長の言葉に私はビックリした。
「えっ!いきなりですか!!!」
「そう!」
一瞬パニックになった。すぐに…そんな!
慌てる私を無視して、ニコニコ顔の会長が首にかけていた白いロープを私の声のする方に差し出された。

緊張!
私の右には伴走のベテラン、クニさんが…後ろにも男性の方がついてくれ、不安だらけの私はスタートした。私はランナーズに書いてあった伴走の説明を一生懸命思い出していた。
(曲がり角の10mぐらい前から、曲がる方向と角度を告げ…近づくに連れて確か…5m・4m・3・2・1・はい!と誘導する…だったよね…あとは…あとは…え〜い!頑張れ!!)

代々木公園は緩やかな道が続いていた。私は会長の足に自分の歩幅を合わせた。そして二人三脚のときと同じ様に逆側の足を出せば、手の振りを合わす事が出来ると教わった。
横のクニさんから、路面の状態、カーブの状況、上り坂下り坂、距離感、そして人の混み具合、廻りの景色等を告げる事を教わった。
セミの声を聞きながら私達はゆっくりと走った。
暑さと緊張のせいか、すぐに汗がどっと噴き出て来たのがわかった。
すぐさま右の直角カーブがやってきた。先ほど思い出した通りのことを言ってみた。すると…
「あっ!いいねえ!その5・4・3・2・1・って言うのがいいねえ!」と、岩井会長。
少し緊張が解け、私の顔にやっと笑みが浮かんだ。
木立を抜けると、右斜め前方の角度に曲がるカーブがやって来た。
「こういう時はね、2時の方向に行きます!ッテ言えばいいんだよ。時計の文字盤を使ってね。」
今度は後ろに付いてくれていたスポーツマンタイプの男性が、アドバイスしてくれた。
(なるほど!)
ゆっくり走る私達を風のように追い越して行った1組がいた。走りがとても綺麗な上、長い髪を、ひとくくりにした姿は女性かと見間違うほどだった。あとから、日本初の盲人富士登山走を完遂したサブスリーランナー福原良英さんだと教えてもらった。(凄い人がいるもんだ!)

代々木公園は縦横無尽に道が走っている為、その中を伴走用としてコースが設定されていた。一周1.75km。
コースを覚えた私は2周目になると、今言われた事を反芻しながら岩井会長を誘導してみた。しかし会長の足はこの公園を完全に把握しているかのように、すいすいと軽やかに走りぬけた。まるで見えているようだった。
さらに驚いたのは公園を3周して給水の為に止まった時だった。
練習会では役員の女性が水やスポーツドリンクのエイドを出していてくれた。その女性が
私の後ろにずっと付いて「時計の針」を教えてくれたその男性の手に、コップを握らせてあげたからだ。
「えっ!!」
この男性の方も、盲人だった。
何故?声を頼りに?
岩井会長の実弟、岩井隆政さん(通称タカさん)だった。
(のちにタカさんには伴走をしながら走り込みでは、かなりしごかれる事となる。)
会長を始め、皆が…まるで見えているかのごとく走るのに再び驚愕した。
初めてのこの日、私は7周走った。タカさんの可愛がる盲導犬ニータがご主人の練習中、じっとおとなしく、その走りを目で追っていたのが印象的だった。

月一回の練習だったが、季節は夏、秋、冬、と3つの季節を駈けぬけていた。その間私は5人の伴走をさせていただいた。針灸院を営む会長やタカさんからは身体機能の果たす役目などのいろんな事を教わった。前述のサブスリーランナー、福原さんに伴走を依頼された時は事実、顔面蒼白になったのだが私の速度、歩幅に合わせて下さり、逆に私が伴走をして頂いて引っ張ってもらうという感じだった。
とにかく驚きの連続だった。
タカさんは道を間違えて走っている私に「この道、違う!」と言い、
福原さんは、私が告げる前に「ばらが咲いていますね。」と言った。
長かった木立を抜けた時、「周りの空気で広い所に出たのが解る!」とも言われた。
鋭敏な感覚を肌で感じた。花や木や鳥や…吹く風のありがたさを今まで私は考えた事もなかった。
さあ〜。
走りなれた代々木公園を飛び出して、いよいよ初めてのレースを立川昭和記念公園で迎える事となった。

私の持つ白いロープの先には野沢文雄さんという方の手があった。
文京区の整形外科病院で針灸の治療をやっていらっしゃるという野沢さんとはこの日初めてお会いした。50歳を少し廻った小柄な野沢さんは、ニコニコ顔のとても初対面とは思えないほどの気さくな優しい方だった。
実はこの日私は岩井会長を伴走させて頂く予定だった。初レースの緊張も会長の伴走という事で少しの安堵に変わっていた…はずだった。
…が。
野沢さんにはずっと伴走をしていた方がいらしたが、突発性発疹の為、当日急遽私に替わったのだった。そんな!若者的表現で言えば…「まじィ〜?」である。
しかし岩井会長と野沢さんは共に背格好がほとんど同じで速度も大体同じとの事。
心の中で私は叫んだ!
(がんばれ!!)
笑顔の野沢さんだったが、きっと私以上に緊張されているだろうと思った。

「がんばってー!」
「行ってらっしゃーい!」
沿道のたくさんの応援の声がとても温かかった。その声に包まれてスタートの白線を越えた時、私は思わず…ぐっと込み上げて来る熱い物を押さえる事が出来なかった。心がふるえた。

「命を預かってるんだぞ!おいっ!」
私の中の、もう一人の声で私は再度ロープを握り締めた。
公園内の片道2.5kmを2往復するコースが10kmの部だった。スタート直後、道は緩やかに真っ直ぐ下った。降り切った所から可愛いい声が飛んできた。ボーイスカウトの少年だった。8〜9歳のまだ年はかない少年から、高校生までのボーイスカウト総勢260名がこの片道に並ぶと言う、素晴らしい応援がここから始まった。一人一人が名簿とナンバーを照らし合わせ、ランナーの名前を大きな声で呼んでくれた。
野沢さんは一人一人に元気な声を返していた。私のガイドにも一つ一つ返事をしてくれた。花見を楽しむ家族が両脇の芝生の上にあふれていた。
一年のうちでたったの一週間だけ桜は咲き誇る。その一年で一番綺麗な桜の下を今、私達は駈け抜けている。廻りの景色を…野沢さんに伝えた。
公園内の道は、おとなしくはしてくれなかった。うねり続けた。右に左に常に緩やかなカーブを切り、細かなアップダウンがいくつもいくつも続いた。トンネルも抜けた。橋も渡った。思った以上にきついコースだった。しかし道路状況を私より早くに沿道先の少年達が叫んでくれた。
優しい風に押されて私は走った。

2.5kmの折り返しを廻って早々と、シドニーパラリンピック出場の保科清さん(55歳)が、先頭で帰ってきた。20mほど後方に代々木公園で一緒の福原さんが続いていた。力強い走りだった。今日彼らは20kmを走る。保科さんの鍛えられた上半身が印象的だった。
続々と代々木の仲間達とすれ違ってゆく。掛け声と共に2.5kmの三角コーンが意外と速く見えてきた。16分15秒。
野沢さんとは色々話をしたかった。だが、うねり続ける道がソレを拒んだ。同じ道なのに折り返しは全く違った顔に見えた。景色が反転する。私も初めての道だけに緊張が続いた。
一往復(5km)、33分45秒。
最後の2.5kmになって、とうとう野沢さんの返事がなくなった。
荒い息が聞こえ始めた。私も荒い息になりそうだった。…が、一生懸命息を殺した。
野沢さんに残りの距離を何度か伝え、それでもペースを守りつづけた。
「大きな直角のカーブを四つ曲がればゴールです!」
花見客の喧騒を抜け、応援が一際大きくなった最後の直線、私と野沢さんは最後の力を振り絞ってゴールした。
野沢さんが倒れこんだ!

笑顔が戻った野沢さんは私に固い握手をしてくださった。
嬉しかった…
タイム、67分20秒。

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咲き誇る桜をあんなに綺麗だと感じたことがあったでしょうか。
私を信じてくれて、野沢さんは一生懸命走ってくれたんだと思うと、私は嬉しかった。
そして知らず知らずうちに走る背中が真っ直ぐになりました。
盲人伴走の事を、まだ経験浅い私などが言えることではありませんが…
私が出会った人達は、実に前向きでした。自然の優しさを身体中に感じて…実に力強い一歩を踏み出して走っていました。そしてまた…それを生涯の糧としてサポートし続けている暖かい人達ともたくさんお会いしました。
「自己ベストを出してあげるのが僕の生きがい!」と言い切られた方もいました。
「走る」という実にシンプルな事で、一緒に汗を流し…そこから生まれる何人(なんびと)への優しさや思いやりに感謝しました。心の瞳で花や木や鳥や風たちを見るという事から他者への優しさとは…思いやりとは何か…を考えさせられるのでした。

次は5月19日、日比谷から千駄ヶ谷の国立競技場までの10km。
都心を走り切る東京シティーロードレースにずっと私を指導して下さったタカさんの伴走で走ります。あの有資格者だけが走れる東京国際マラソンコースの最後の10kmです。車を遮断して天下の公道をひた走れるのをとても楽しみにしています。
アキレストラッククラブの大島幸夫氏が
「東京にもNYマラソンやロンドンマラソンのように市民の為の国際レースを!」
と、掲げられてがんばっていらっしゃいます。
今度の東京シティーロードマラソンが拡大し、いつかは国際レベルの広がりにつながって行きますよう…そして、いつの日か日本もNYマラソンに代表されるように、障害者に対して温かい国となりますよう…心より祈っています。

―――完走のゴールを二人で迎えられた時…それは至福の瞬間でした。

2002.3.24


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